2020年はやたらと國分功一郎・著『暇と退屈の倫理学』の引用を見聞きする機会が多かったように思う。
振り返れば僕自身、昨年感じた様々な“もやもや”の根底にあったのは、本書で分析される「退屈さ」の存在だったのかもしれない。
暇だけど、暇じゃない。そんな状態が長く続いている。—「考えること」
本書では「暇」と「退屈」を明確に区別し、前者が物理的に「いっぱいいっぱい」であるかどうかに依る客観的状態を指すのに対し、後者は自分の内から湧き上がる感情や気分に基づいた主観的状態なのだと位置づける。ともすれば、先に僕が感じた“それ”は「退屈」に他ならない。
「暇」ではないけど、「退屈」である—これが現代人の多くが陥っている、如何ともし難い状態だ。
他方、かつての遊牧民。かれらの日々は「刺激」に満ちあふれていて、その日一日を生き延びることで「いっぱいいっぱい」だった。そこには暇も退屈も存在しない。
しかし定住という概念が生まれ、やがて安定・習慣化した日々を送るようになった人類は「暇」という客観的状態を獲得した。その日生きるための食料を調達するとか、一夜限りの滞在地にトイレを作るとか、夜を越すための寝場所を探すとか、そういった「忙しさ」から解放され「自由」になったのだ。そして「暇」を生きる中で次第に人々は「退屈」という主観的状態に陥り、その状態から抜け出すために様々な新しい「仕事」を生みだしてゆく。
なぜ人類の定住化以降、文明が急速に発展したのか?それは「暇」になったから。その結果生じた「退屈さ」を原動力とした、「気晴らし」としての発明・発見の歴史—それが本書で紹介される、ひとつの考え方である。
「気晴らし」が行動の原動力になる。そしてその行動は、必ずしもポジティブなものであるとは限らない・・・そんな視点に立ってみると、ここ数ヶ月に渡って検討してきた資本主義が生み出す虚しさに関する諸問題も「退屈」という極めてありふれた状態と密接に関わっていることに気がつく。
資本主義に縛られて幸福というものが相対的に定義される限り、どれだけ金銭的に裕福になろうと、高い社会的地位を獲得しようと、インターネット上で人気者になろうと、真の「幸せ」というものは訪れない。 [...] 『人新世の「資本論」』の言葉を借りるのであれば、僕らは「欠乏を生むシステムとしての資本主義」によって縛られているということになる。—「今年手放してよかったもの」
際限なき生産性の追求の末に資本家から搾取され、消費者であり続ける僕ら。そんな社会でどれだけ“豊か”になろうと、根源的に満たされることなどあるはずもなく。—じぶんローカライズ元年:慈しみから生まれる深いつながりを目指して
どこか満たされない退屈な日々の中で、我々は常に気晴らしを求めている。そこに資本は付け込み、次々に「商品」を提示することで消費へと駆り立てる。そして、そんな安易な「気晴らし」としての消費の果てにある空虚感が、我々の退屈さに拍車をかけるのだ。
では「気晴らし」の正体とは一体何なのか?安易ではない「気晴らし」というものが存在するのか?
退屈しているとき、人は「楽しくない」と思っている。だから退屈の反対は楽しさだと思っている。しかし違うのだ。退屈している人間が求めているのは楽しいことではなくて、興奮できることなのである。—『暇と退屈の倫理学』第一章 暇と退屈の原理論
この通り「退屈」の反対が「興奮」であり、興奮できることが気晴らし足り得る条件であるとするならば、消費に代わる健全な興奮因子を見つけてあげればよい。
実は、そんな興奮のタネは「退屈」という均衡状態のなかにこそ存在する。それを手に入れるためには、当たり前を全力で享受して待ち構えるほかない—これが『暇と退屈の倫理学』がたどり着く結論の一端だ。
当たり前を全力で享受するとは、一体どういうことだろう?それは、本書の言葉を借りるのであれば「浪費家になる」ということだ。「消費」ではなく「浪費」である。
先に述べたとおり、資本は「退屈」に付け込んで消費を促す。このときの問題は「消費とは概念・意味を受け取ることであり、我々はどこまで消費しても満たされることはない」という点にある。
「みんなが持っているから買わねばならない」「余暇を楽しんでいることを証明するために旅行へ行かねばならない」「このブランドの商品はこんなに良いものなので手に入れなきゃ損」・・・資本(広告)はそんな相対的価値観を煽り続け、退屈な僕らはそんな「概念」を獲得するために必死になる。御存知の通り、資本は常に新しい商品を提供し続けるわけで、この構造には終わりがない。資本家が消費者に受け取ってもらいたいのは、商品それ自体ではなく、そこに付随する希少価値という「概念」なのだ。
一方で、本書で語られる「浪費」は「必要以上に“物”を受け取ること」を指す。我々はそれを贅沢と呼ぶのだが、消費との決定的な違いは「浪費はどこかで限界に達する」という点にある。衣類や食事を浪費しても、体はひとつで胃袋にも限界がある。「これ以上着れない・食べれない」という物理的限界が存在し、そこで我々は満足を得る。
だからこそ、当たり前から全力で「非概念的な“物”」を受け取り、絶対的価値観の下で満足を、贅沢を獲得しようではないか。それがあるべき退屈のやり過ごし方なのだ、と。
人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。生きることはバラで飾られなければならない。—『暇と退屈の倫理学』序章 「好きなこと」とは何か?
目の前のパンやバラをただ「消費」するのか、あるいはそれを全力で味わい、愛でることで「浪費」の対象とするのか。すべては自分次第である。
知識がアートや星空の見方を変えるように、僕らは訓練によって全く違った世界の見方を獲得することができる。意識的に、当たり前から“物”を享受する力を身につけるのだ。
それは『僕らは名もなき“誰か”からの贈与に気付いているか?』で紹介した『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』の考え方に通じるものでもある。
僕らにとっての「当たり前の日常」こそが、他でもないそんな“誰か”からの「贈り物」の実体なのだ。
ゆえに、目の前の日常を疑い、意識的に再発見することで、僕らは名もなき贈与者が獲得した「当たり前」の受取人となり贈与のバトンを繋ぐ資格を得る。
究極的には「マインドフル」であることの実践、それこそが退屈な毎日の“すきま”に興奮を見い出し、そこに満足感を得るためのカギなのではないかと思う。
- 「暇」と「退屈」
- 「退屈」と「興奮」
- 「消費」と「浪費」
これらの対比によって見えてきた、絶対感を持って当たり前と対峙することの意義。ややラディカルな例ではあるが、僕は本書を読んで岡本太郎・著『自分の中に毒を持て』を思い出さずにはいられなかった。
「冒険」──それは甘えだ。運命への、自然への甘えた戯れ。ぼくがこの言葉を否定するのは、俗にいう「冒険」は気まぐれなお遊びであり、一時的なスリルで満足してしまう、運命全体を負わず、再びもとの惰性に戻ってしまうからだ。虚無に打ち勝たなければならないのに、逃げてしまう。 [...] 甘えた「冒険」ではなく、恰好をつけた変わったことをやってみるのではなく、日常生活の中で、この社会のどうしようもないシステムの中にがんじからめにされ、まき込まれながら、しかし最後まで闘う。それこそ、危機にみちた人生だ。—『自分の中に毒を持て』正義の裏・悪の裏
ここでいう「冒険」、それは退屈の声に耳を傾けず逃避する行為に他ならない。一時的なスリルや目の前の忙しさでフタをして当たり前を享受することを諦めたとして、一体僕らは何のために生きているというのだろうか。
「昨日と今日は、同じように見えてこんなにも違っている」—マインドフルに世界と接し、その事実に気がついたときの興奮こそが最高の「気晴らし」ではなかろうか。その贅沢を味わえない限り、僕らはいつまでたっても「満たされなさ」を抱え続けることになる。
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最終更新日: 2022-07-31
書いた人: たくち
Takuya Kitazawa(たくち)です。長野県出身、カナダ・バンクーバー在住のソフトウェアエンジニア。これまでB2B/B2Cの各領域で、Web技術・データサイエンス・機械学習のプロダクト化および顧客への導入支援・コンサルティング、そして関連分野の啓蒙活動に携わってきました。現在は主に北米(カナダ)、アジア(日本)、アフリカ(マラウイ)の個人および企業を対象にフリーランスとして活動中。詳しい経歴はレジュメ を参照ください。いろいろなまちを走って、時に自然と戯れながら、その時間その場所の「日常」を生きています。ご意見・ご感想およびお仕事のご相談は [email protected] まで。
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