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2020-12-30

「今年手放してよかったもの」

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家と服ですかね。

勢いでOYO LIFEでのお試しアドレスホッピング生活を決めた。家具家電や服はバッサリと処分して、荷物はダンボール数個と登山用ザック2つ、スーツケース1つに収まるだけになった。 (中略) 処分に際して、書籍は買取王子、服や靴は古着deワクチン、アウトドアブランドのモノはリアルクローズ、その他の家具家電や粗大ごみはくらしのマーケットに掲載されている不用品回収業者に依頼した。

軽やかに生きたくて。

中でも、古着deワクチンの隅々まで還元されてみんながハッピーになるモデルは大変興味深い。

今回はそんな所有とリサイクル行動に関する一考察と、"Less is more" であることについて。

『人新世の「資本論」』がすごい

「世界の富裕層の上位10%が地球上のCO2の半分を排出している」

そんな一文を読んで、あなたは何を思うだろうか。

・・・

話題の書籍『人新世の「資本論」』を読んだ。久しぶりに、すごい本に出会えたものだと思う。

キーワードは環境危機、資本主義、脱成長コミュニズム。

自分にとっては不慣れな分野であり間違っている部分もあるかもしれないが、まずは読後感を鮮明なうちに書き留めておきたい。

問題の先延ばしではなく、システムの再構築を

環境問題に対するアクションの代表例であるエコバック。手軽に「良いことをしている感」が得られる一方で、我々がエコバックそれ自体の生産工程まで想像することは稀である。挙げ句、人々はデザイン性やブランドを求めてエコバックを「消費」するようになる。

重大な社会問題に対してこのような小手先の対策ばかりを講じている状況を指して、本書は「SDGsは大衆のアヘンである」という強いメッセージを発する。その場しのぎで麻酔を打ち続けても、結局は問題の先延ばしにしかなりえないのだ。

資本主義の下で「使用価値」(有用性)の先にある「価値」(ブランドなどに付随する相対的希少性)を追い求める限り、僕らは大量生産・大量消費の負のループから抜け出すことはできない。

バイオテクノロジーのような技術の進歩も、資本主義の下では政治経済と密接に結びついたトップダウン型の場当たり的問題解決の粋を出ず、楽観視はできない。環境に配慮した製品やオーガニック食品、代替肉を意識的に選択していたとしても、それらがすべてキレイに梱包された「商品」である限り、下流工程で生じる環境負荷と途上国で支払われる“代償”は避けられない。

ゆえに、システムの抜本的な改革なくして真に持続可能な社会の実現はありえない、というわけだ。

自分がやらなくて誰がやる?

今の世の中のシステムに期待できないのなら、他人任せにせず当事者として僕ら一人ひとりが能動的にアクションを起こす他ない。それは数十年後、数百年後の“何か”に転嫁できるような「他人事」であってはならないのだ。

冒頭の「世界の富裕層の上位10%が地球上のCO2の半分を排出している」という話。これに続く本書の記述は「(先進国である)日本人の多くもこの上位10%に含まれている」である。

ハッとさせられた。自分は「上位10%」には含まれておらず無関係な話だと、無意識的に決めつけていた。あまりにも恥ずかしい。

僕らが私財 (Private Riches) を肥やして“豊かな生活”を送っている一方で、水のような地球全体の公富 (Public Wealth) は着実に衰えていく。まずはその事実を受け止めなければならない。

その上で本書が示す新しい方向性、それが「脱成長コミュニズム」である。

目指すのは、完全地産地消による資本主義経済からの脱却と、物質的欲求からの解放だ。成長の鈍化を受け入れながらも、決して歩みは止めない。継続的な技術の進歩・応用は大前提として、それらを小さく開放的な「コミュニティ」へと還元することで「使用価値」にフォーカスした社会を実現しようというのだ。

足るを知る

一連の主張により、環境危機を「自分ごと」として一歩踏み込んで考えるきっかけを『人新世の「資本論」』が与えてくれた。

では今現在の自分の生き方は、社会システムの再構築に寄与しうる「正しい」ものなのだろうか。

たとえば、アドレスホッパー的な生活に転じたことは、どんな意味を持つだろうか。

まず、服や車、家具家電といった明らかに環境負荷の高いモノをむやみに買う理由が無くなった。消費社会からの脱却という点において、これは有意義な取り組みであろう。単に「ミニマリズム」という考え方でまとめてしまうと精神論的な動機が中心に来るが、今回の学びによって、この「買わない」「持たない」という営みにより一層強い理由付けが成されたように思う。

一方、コミュニティの構築と持続可能性という観点では、こんなこと一刻も早くやめるべきなのかもしれない。常に1−2ヶ月後にはその地を離れる状態なわけで、そこに根ざし、生産し、還元することなどどだい無理な話である。また、拠点間の移動に伴う環境負荷は計り知れない。

食生活に目を向けてみると、栄養学的な良さは意識していても、その多くはパッケージ化された「商品」に依存していることは明らかであり、変えられるところはいくらでもある。

課題は山積だ。

2021年は、このように自身のライフスタイルを省みるところから始めたい。エコバックやキレイに梱包されたオーガニック食品の例のような「なんちゃって社会問題解決」に惑わされ、良かれと思っていたことが無意識のうちに格差・環境破壊を助長している事例はいくらでもありそうだ。

足るを知る者は富む。表面的ではなく、その言葉の「正しい」体現者でありたいと僕は思う。「買ってよかったもの」よりも「手放してよかったもの」「買わなくてよかったもの」に目を向ける、これはその第一歩である。

「クソみてぇな仕事」の虚しさ

「なんちゃって社会問題解決」によって生じる矛盾は、個人の生活のみならず法人の振る舞いの中にもある。

SDGsへの取り組みを掲げる一方で、希少性を与えるためだけのマーケティングに莫大な資金を投入する企業。商品自体の「使用価値」は変わらないのに、である。

そのような相対的希少性が評価され、エッセンシャルとは言い難い領域で展開されるビジネスに多額の資金が流れ込む。これが資本主義の産物だ。『人新世の「資本論」』でも触れられているように、書籍 "Bullshit Jobs" で語られる「クソみてぇな仕事」の数々はその成れの果てだと考えられる。

そんな仕事には身を投じたくはないと、強く思う。

多くの人にとって「本当に大切なモノはなにか」を問うきっかけになったであろう新型ウイルスの蔓延。それは僕も例外ではなく、人間関係、仕事、衣食住、将来といった様々な軸で、自分の“今”を強く疑い続けた一年間だった。その中でも最も大きな問いのひとつが「ささやかではあるが決してゼロではない(と信じたい)我がスキルセット。それを活かす先が、果たして目の前のこの問題で本当にいいのだろうか?」というもの。

夏ごろには「社会問題解決」を謳う企業や「エッセンシャル」であると思われる業界で、試しに転職活動のようなこともしてみた。しかしどこを見ても利潤追求の縛りからは逃れられず、問題の先延ばしを行っているだけでは?という疑念を拭い切ることができなかった。

着目している問題が素晴らしい、共感できる。でもビジネスとしてスケールするだろうか?YESであれば結局の所それは「クソみてぇな仕事」と大差なく、NOであれば有機的に回らぬ低賃金で過酷な労働。すぐにそんな二元論に陥ってしまうのがとにかく悲しくて、しかし明確な答えが得られないまま、今この瞬間もただただ時間が過ぎていく。

その点において、資本主義経済から切り離された小さな社会の中で「使用価値」を重視しながら地産地消を促すという「脱成長コミュニズム」のあり方は、ある種の理想郷である。

結局は自分の幸福のため

とはいえ世界的な問題の「自分ごと」化はやはり容易ではなく、「このまま資本主義の下で生きていても環境危機は解決されない」という話は、個人がライフスタイルや仕事を変える動機づけとしては弱い。

しかしどうだろう。公富となりうる水などの最低限のライフラインを確保しつつも、生活の質 (QoL) に重きを置く生き方への転換—そんな「脱成長コミュニズム」のもたらす未来は、一人ひとりの「幸せ」と強く結びつく話でもある。

資本主義に縛られて幸福というものが相対的に定義される限り、どれだけ金銭的に裕福になろうと、高い社会的地位を獲得しようと、インターネット上で人気者になろうと、真の「幸せ」というものは訪れない。現代社会におけるこの悲しき真実は『サピエンス全史』でも語られている通りであり、『人新世の「資本論」』の言葉を借りるのであれば、僕らは「欠乏を生むシステムとしての資本主義」によって縛られているということになる。

物質的欲求から文化的活動へ。元来、人類はもっと自由で“健康”な生き物だったのだ。『最高の体調』で紹介されている原始的な生活を送る民族の健やかさ、それこそが「脱成長コミュニズム」の先にある僕らの未来なのではなかろうか。

ならば、3.5%の法則が示すように、人口のわずか3.5%でも「自分ごと」として本気で考えてアクションを起こせば・・・そんな想像をせずにはいられない。

「正しさ」を問い続け、できることから始めよう。

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最終更新日: 2022-01-18

  書いた人: たくち

たくちです。長野県出身、カナダ・バンクーバー在住のソフトウェアエンジニア。これまでB2B/B2Cの各領域で、Web技術・データサイエンス・機械学習のプロダクト化および顧客への導入支援・コンサルティング、そして関連分野のエバンジェリズムに携わってきました。現在はフリーランスとして活動を続けつつ、アフリカ・マラウイにて1年間の国際ボランティアに従事中。詳しい経歴はレジュメ を参照ください。いろいろなまちを走って、時に自然と戯れながら、その時間その場所の「日常」を生きています。ご意見・ご感想およびお仕事のご相談は [email protected] まで。

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