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2020-06-21

「考えること」

暇だけど、暇じゃない。そんな状態が長く続いている。

「以前のような日々」なんてものはもう二度と訪れないわけで、これはもうどうしようもない。では今年の末に、1年前とは全く違う意味で「昨日がとても遠くに感じる」などと書かずに済むように、今なにができるのか。そんなことを毎朝30分の散歩中にずっと考えている。

貯金を取り崩しながら生きている感覚

そう。この数カ月間、僕はずっと何かを考えている。

それは散歩中だけの話ではない。朝起きてから布団に入るまで、頭の中は常に仕事や人生における何らかの懸念事項で埋め尽くされている。だから、それについて考え続けるしかない。

おうち時間というが、たまっていた映画や漫画の消費どころではない。あれこれ自問しているだけであっという間に時間が過ぎてゆくのだ。外を走ってみても、デジタル機器から距離をおいてみても、古本屋で小説を買ってぱらぱらとめくってみても、一向に落ち着きは得られない。

そんな“忙しい”毎日を繰り返していると、さすがに疲れてくる。この終わりなき脳内会議が、ひどく非生産的なもののように思えてくる。はたして自分は今、前に進むことができているのだろうか?不安だ。

ここでふと『イシューからはじめよ』に書かれていた「考えること」と「悩むこと」の違いの話を思い出す。僕がやっているつもりでいた生産的活動としての「考える」という行為が、実はそれとは別の「悩むこと」あるいは「思うこと」でしかなかったのだとしたら?

「問題は何か?」という問題

ざわつく気持ちを抑えて、まずは冷静に「考えること」の本質を探ってみる。以前探求した認知科学分野の学問的な説明ではなくて、もうすこし、姿勢のようななにかを。

そんなとき、たまたま聞いていたラジオ番組で紹介されていたのが『はじめて考えるときのように 「わかる」ための哲学的道案内』という本。読んでみると、考えるためには事前に「解くべき問題は何か?」を十分に問うことが重要だということが見えてきた。

考えるってことは、問題を抱えて、その問題のまなざしでものごとまなざしでものごとを見ることだ。(...) そして多くの場合、問題の意味がはっきりとしたとき、答えも見えているだろう。はじめて考えるときのように

『イシューからはじめよ』でも、真に解くべき問題(イシュー)を見つけることの重要性を説いていた。多数の些末なタスクに時間を浪費する前にまずは問題を見極め、そこに一点集中、全力で答えをだす。さもなくば、非生産的行動の極地“犬の道”に足を踏み入れている可能性が高い。(c.f. Issue-Driven Makes You Professional)

ふむ・・・この見地に立ってみると、悔しいけれどやっぱり僕はこの三ヶ月のあいだ実は全く何も考えられていなかったのかもしれない。ただ無為に何かを「思うこと」「悩むこと」に時間を割いていた可能性がある。「ねぇ、ずっとなにかを考えているようだけれど、何が問題なの?」そんなことを聞かれても、具体的に言えることなど無いのだから。

気づくのが遅すぎたかもしれない。でも大丈夫、きっとまだ間に合う。

「いま自分が抱えている問題はなにか?」と改めて自問し、思いつく限りの心配事や不安・不満の種を書き出す。そしてそれらを、「なぜ...がxxxなのか?」という疑問文に変換してみる。

あっ、そういうことか。・・・いや、まだ答えは出ていないですよ。そんなに簡単なら、それは問題にはならない。

でも僕は今、確かに問題それ自体を問うた。たったそれだけ。それだけのことなんだけど、なんだか物凄く視界がクリアになった気がする。

さあ著者よ、僕は次になにをすればいい?どのように問題を具体化して絞り込む?最終的な答えはどうやって見つければいい?

「自分の頭で考えるというのはまちがいで、頭の外で考えたり、ひとといっしょに考えたりするのじゃ」はじめて考えるときのように

頭の外で、ひとといっしょに考える

さてここで問題。「なぜ自分はいま、世の中が元通りになりつつあるのを素直に喜べないのか?」

「以前のような日々」なんてものはもう二度と訪れない—それはそう。でも様々な制限が緩和されつつある今、周囲をみると皆むしろ積極的に「元通り」に戻ろうとしている様子で、その切り替えの早さに驚く。閑散としていた散歩道の人通りが増え、飲食店には活気が戻り、友人各位からお出かけのお誘いが届くようになる。

でも僕は正直、まだこころの準備ができていない。戸惑っている。

つまり、最初こそいろいろと心配事があったものの、いまこの時点の自分にとっては自粛・在宅生活が非常に快適なものとなっている事を認めなければならない。

振り返ってみると、この自由で静かな生活のはじまりが2−3月くらい。それは、ちょうど新玉ねぎがスーパーに並び始めたころだった1

そこから早三ヶ月。

梅雨。春のおわり。新玉ねぎの季節のおわり。

やっと新しい生活のリズムを掴みかけた気がするのに。まだまだたくさんのお取り寄せビールとふるさと納税返礼品が届くのに。

しかしそうも言っていられない。いま、目の前の哲学書は「考える」という営みにおける外界との相互作用の重要性を語っている。そしてこれは『データよりもストーリーを、相関よりも因果を。』で読んだ科学書が一様に説明していた、認知の基本的な仕組みに他ならない。

「今」に慣れるな。内に籠もるな。外との接点を持て。そして認知を促せ。

半ば諦めに近い感情とともにそう自分に言い聞かせ、スーパーで元・新玉ねぎの席に堂々と居座っている夏野菜を手に取る。一歩前進。

重い腰を上げて、すっかり定着した21時就寝4時起床のリズムを壊す覚悟を持って、友人の誘いに乗ってみる。これまた新鮮。

いつか訪れる「エウレカ」の瞬間を気長に待ちながら、変化を楽しみ、「考え続けて」ゆこう。時折立ち止まり、問題を問い直すこともお忘れなく。

それでもわからない時は、考えることを止めてみなさい。よく遊んで、よく食べて、よく眠ること。

1. 野菜の旬というものにはあまり敏感な方ではないけれど、新玉ねぎだけは特別。理由はよくわからない。一人暮らしをはじめて以来、スーパーで新玉ねぎを見かけるようになると「もう新玉の季節かぁ」なんていっちょまえに思うようになった。

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最終更新日: 2022-01-18

  書いた人: たくち

Takuya Kitazawaたくち)です。長野県出身、カナダ・バンクーバー在住のソフトウェアエンジニア。これまでB2B/B2Cの各領域で、Web技術・データサイエンス・機械学習のプロダクト化および顧客への導入支援・コンサルティング、そして関連分野の啓蒙活動に携わってきました。現在は主に北米(カナダ)、アジア(日本)、アフリカ(マラウイ)の個人および企業を対象にフリーランスとして活動中。詳しい経歴はレジュメ を参照ください。いろいろなまちを走って、時に自然と戯れながら、その時間その場所の「日常」を生きています。ご意見・ご感想およびお仕事のご相談は [email protected] まで。

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