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2021-01-11

じぶんローカライズ元年:慈しみから生まれる深いつながりを目指して

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動画制作やチャット・掲示板の運営、Web/スマートフォンアプリの開発、機械学習のアプリケーション応用、そしてIoTのサービス化。振り返れば、キャリアを通してそんな“使い手”ありきの技術応用を探求してきたように思う。

昨年はそこから一歩進んで「技術応用によって生まれたモノ(製品;プロダクト)が“使われる”ためには何が必要なのか?」という問いに対して具体的な解を模索した。見えてきたのは、デザインが伝える「ストーリー」のちからだ。

テクノロジー、デザイン、そしてビジネス。それら「道具」を手に入れることで可能性は拡がってゆく。しかし、その道具を一体「何」に使うべきなのだろう?

一年の終わりには、そんな「問題は何か」という“問題”に対する答えの端緒を『人新世の「資本論」』を通して見ることができた。

相対的希少性が評価され、エッセンシャルとは言い難い領域で展開されるビジネスに多額の資金が流れ込む。これが資本主義の産物だ。 [...] そんな仕事には身を投じたくはないと、強く思う。 [...] その点において、資本主義経済から切り離された小さな社会の中で「使用価値」を重視しながら地産地消を促すという「脱成長コミュニズム」のあり方は、ある種の理想郷である。

「今年手放してよかったもの」

これを起点に、年始は「資本主義と社会問題」をテーマに本を読み漁っていた。結果、今年は自分ではない誰か/何かを慈しむことに一層努めて、できるだけローカルな「場」に根ざし、社会とのつながりを深めようと決意するに至った。

資本主義というシステムの中で

コミュニティの内側で、いかに“商品”への依存度を下げるか

まず、資本主義への入門として『武器としての「資本論」』を読んだ(Audibleで聴いた)。

  • すべてが“商品”になる
  • 商品の“価値”とは、絶対的な使用価値と相対的な交換価値の組み合わせによって定義される

といった原理と改めて向き合うと、いかに自分の生活が過剰な交換価値によって塗り固められた“商品”に支配されているかを思い知り、絶望する。

際限なき生産性の追求の末に資本家から搾取され、消費者であり続ける僕ら。そんな社会でどれだけ“豊か”になろうと、根源的に満たされることなどあるはずもなく。

資本主義に縛られて幸福というものが相対的に定義される限り、どれだけ金銭的に裕福になろうと、高い社会的地位を獲得しようと、インターネット上で人気者になろうと、真の「幸せ」というものは訪れない。 [...] 『人新世の「資本論」』の言葉を借りるのであれば、僕らは「欠乏を生むシステムとしての資本主義」によって縛られているということになる。

「今年手放してよかったもの」

では、そんなシステムに抗うべく、我々は終わりなき権力闘争を繰り広げることしかできないのか?暴力による革命、議会による社会主義化に向けた動き、労働組合による下からの叩き上げ・・・いずれもある種の危うさを孕んでいることは歴史が証明している。

他方、解決の糸口は「共同体(コミュニティ)」という考え方の中にありそうだ。

いわく、商品的価値とは共同体の“外”で発生する「共同体間のやり取り」を通してはじめて生じるものであり、共同体の“内”で閉じたやり取りは必ずしも資本主義の法則に縛られるものではないのだという。家族という共同体の内側で、親に対して「20年間の育児・教育という“商品”(労働)に対してXX円」という対価を支払うわけではないように。

その上で、目指すべきは僕らの基礎的価値観(感性)の再建なのだと著者は言う。

挙げられていた「食」の例がわかりやすい。ファストフードなどパッケージ化された“商品”としての食に支配された“豊か”な先進国と、たとえ貧しくても生鮮食品中心の地産地消・自給自足を実践する社会。より共同体の“外”とのつながりが弱く、真に富んでいるのは果たしてどちらだろうか。僕は確実に後者だと思うのだけれど。

アートの世界に見る、資本主義との現実的な向き合い方

とはいえ、「資本主義の根絶」や「原始的価値観への回帰」といった話は現実性に乏しく、どこかで折り合いを付ける必要がある。「ポスト資本主義」ではなく「ウィズ (With) 資本主義」を—そんな議論が展開されるのが『美術手帖 2020年 10月号』の「コロナ禍に考える、ポスト資本主義とアート」特集だ。

「アーティストは労働者か?」

残念ながら、答えは「イエス」だ。アートが消費される現代おいて僕らは「美術館に収蔵されるから芸術的価値がある」とみなすのであって、必ずしも「芸術的価値があるから美術館に収蔵される」のではない。

理想は「贈与」としてのアートだろう。感情の赴くままに制作がなされ、非商品性を貫きアカデミズムからも切り離された存在。しかし現実は、「資本主義に反対なのでお金は不要です」という態度をとれば生活が困窮するだけ。現代社会で生きている限り、最低限のお金は必要である。

たまたま今日観てきた原田治 展「かわいい」の発見。その展示パネルによると、高校卒業をひかえた原田は恩師・川端実に画家への道を相談したが、返ってきた答えは「一生働かず稼がずに、絵だけを描いていけるなら」というものであったという。それを受けて彼は多摩美のデザイン科へと進学する。

「死ぬまで作品を作り続けられるだけのお金を稼ぎたいだけ」と誰かが言う。しかしそれが難しい。

ではどうやって資本主義とうまくやっていくか。いかにして経済的な代替フローを確立し、「生活」の「労働」への従属度を下げていくか。

挙げられているのは人類のローカライズやアートの中のコミュニズムといった話で、具体的には地方芸術祭やコモンズの創出について。やはりここでも「共同体(コミュニティ)」がカギになるようだ。

ノマドワーカーの「ノマド」が指す「ノマディズム」とは本来、極めて「場」に根ざしているものなのだという。各地を転々とする遊牧民の柔軟な暮らし、それは決して刹那的かつ一時的なものではない。対照的に、訪れた地を深く理解し、そこで得られるリソースのすべてを最大限に活用し、暮らしを育んでゆくことが要求されるのだ。

そんな遊牧民のように、ローカルなの深い理解を通して芸術を丁寧に“育む”ことこそが、アーティストが資本主義の中でできる精一杯」なのではなかろうか。

ローカルな「小さいコミュニティ」の中で個々人が役割を持つ

そんな「精一杯」を大真面目に実行しているのが、『社会を希望で満たす働きかた ソーシャルデザインという仕事』の著者・今中博之氏率いるアトリエ インカーブの取り組みである。

障がい者アートを別け隔てなく一作品として扱い、アートやアーティストの矜持を守るための取り組みを行うインカーブ。

目の前の人を出発点とするローカルな発想で、自分たちのコミュニティの中で個々人が役割を見つけられるような仕組みをつくることが重要だと語る今中氏。個々の能力はコミュニティで養われ、コミュニティで発揮される。ソーシャルデザインとは、そんな小さな単位でこそ実現可能なものなのだ、と。共感力を反映できるのは150人が限界であるという氏の「こだわり」も、『サピエンス全史』に記されている文化人類学的な知見とも合致して納得がいく。

そんな強い思想に基づいて、搾取・利用されるばかりではない「ウィズ資本主義」のあり方を「社会福祉法人」という制度を使い倒すことで体現するインカーブの取り組み。そこには多くの学びがある。

一人ひとりが自らフラッグを掲げて「この指とまれ」で仲間を集め、問題を可視化することの意義を説く著者。その土台となっているのはサーチ理論の「市場とは、取引相手を探す場所である」というアイディアであり、「市場」と「福祉」という両立が困難な課題に対して氏は、真剣に対等な取引相手を探しているのだ。

市場原理主義を重視する新自由主義・グローバリズムが世界を席巻したここ数十年の間に、わが国のデザイン業界は、色や形を問う狭義のデザインに終始し、効率やコストを最優先するデザイナーを排出することに躍起になってきた。—『社会を希望で満たす働きかた ソーシャルデザインという仕事

世界の全人口65億人のうち、90%にあたる58億人近くは、私たちの多くにとって当たり前の製品やサービスに、まったくといっていいほど縁がない。—『世界を変えるデザイン――ものづくりには夢がある

求められるのは、色やフォント、配置のような「狭義のデザイン」に関するスキルを武器にしながらも、共同体のための具体的な企画設計を行う「広義のデザイン」に目を向けて実践していくことだ。そのようにして自ら社会に働きかけない限り、目の前の人を、自分自身を、ひいては人類を“幸福”にすることなどできない。

システムと共存するための小規模コミュニティ戦略

大きな(グローバルな)問題、小さな(ローカルな)コミュニティ

では先進国が取り残してしまった9割の人が真に必要とするサービスとは何なのか。ヒントはすでに国連が用意してくれている。

誰一人取り残さず、地球規模の様々な課題を解決するための共通目標・SDGs。そのキホンを『持続可能な地域のつくり方』に学んだ。

ひとつひとつの目標は壮大だが、人類の負債をいきなりゼロにすることができない以上、可能なアプローチは共同体に基づく「ローカル」な一人ひとりの取り組みに他ならない。自然環境下から生み出す小さな+(プラス)のちからを積み重ね、現状のー(マイナス)を着実に上回っていくことだ。

ここで重要なのは、複数の問題に対して包括的にアプローチすること。環境、貧困、差別・・・異なる問題は相互に関連しており、ひとつ解決してもまた新しい問題が生まれるだけ。ゆえに、コミュニティの中で繋がりを持ち、対話を通してビジョンを共有し、場当たり的問題解決ではない未来逆算型の対策を講じる必要がある。

本書はそんな包括的アプローチを検討する際の羅針盤となってくれるだろう。

具体的には「伝わるデザイン(コミュニケーション)」によって周りを巻き込み、一人ひとりが問題を自分ごと化したうえで協調することの意義を説いている。

フィールドワークによって適切な問題を設定し、コミュニティを構築する。そして、農村部にみられるギブアンドテイクの関係のように、不等価交換・非貨幣経済のなかにある価値を再発見する。究極的には、そのコミュニティの中で個々人が役割を持つことが持続可能な未来へとつながってゆく、というわけだ。

ギブ (Give) からはじまる「特定多数」の中での不等価交換

贈与、不等価交換、非貨幣経済・・・現代社会において、果たしてそんなことが本当に可能なのだろうか?体系化されたメソッドは存在しないけれど、『ゆっくり、いそげ ~カフェからはじめる人を手段化しない経済~』の著者・影山知明氏らが運営するクルミドコーヒーの事例はその「まさか」を成し遂げたものであり、読者に勇気を与えてくれる。

かつてのムラ社会のような「特定少数」の不自由なつながりでもなく、資本主義に支配された現代の都心部に見る「不特定多数」の希薄な関係でもない。参加者が多すぎず少なすぎず、内側に“ちょうどいい”緊張感を孕んだ特定多数の経済圏の可能性を示す本書。

何も僕らは世界規模の「多数」を相手にアクションを起こす必要はない。クルミドコーヒーがそうであるように、コミュニティひとつでも十分に大きな+(プラス)の変化を起こすこができる。「顔が見える関係を起点にした、ギブ (Give) から始まるゆっくりと時間をかけた取り組み。そこにはたしかに不等価交換に基づく“経済”が成り立っているのだから。

このつながりを逸脱して“お金”が価値のすべてになった瞬間から、僕らの関係はテイク (Take) 一色になる。それはさぞ生産的で効率的な世界だろう。しかし一回一回のやりとりでお互いの気持ちが都度“精算”されてしまい、両者の間に残るものなど一切ない。その血の通っていないシステムこそが資本主義というものであり、結果として、見えざる手によって皆が利潤追求へと追いやられてゆく。D2C企業のコモディティへの回帰も、今思えばその力学の影響に他ならない。

「人」を起点にして「自分ごと」化の質を高める

一方で、たとえ中央線乗降者数最下位の駅であるといっても、クルミドコーヒーの舞台・西国分寺は首都・東京の一都市であることに変わりはない。これは「特定多数」のコミュニティを構築する上では大きなアドバンテージであり、地方で同様の取り組みが全く同じように成立するとは思えない。

試しに僕自身の地元で思考実験を試みたが、当然すぐに答えは出ない。しかし、いざ取り組むときのリファレンスとして『ソーシャルデザイン実践ガイド』は有用であろう。ブレーンストーミングのようなアイディア発想法、KJ法、ペルソナの設定・・・いずれもメソッドだけ知っていればOKという類のものではないけれど…。

社会問題をいかに「自分ごと」化するか、という点に焦点を当てながら、プロジェクトに取り組む際の具体的な手順とテクニックが丁寧に解説されている。

  1. 現場とデータから全容を大きく理解する。両者のバランスが重要で、質より量でデータという先人の知恵も活用すること。
  2. 住民と正面から向き合い、丁寧に「声を聞き」、関係を深めることで「自分ごと」の質を高める。この時点では仮説抜きで、クリアな状態で対話をすること。
  3. 知見・課題間の関連を2次元マップに落とし込んで整理する。プロジェクトイシューのアイディア出し。イシューは「特定の誰か」に向けたものであるべきで、「みんな」や「だれでも」はNG。加えて、自分がMotivateされるか、が肝心。
  4. 仲間をつくる。資金繰りもここ。
  5. プロトタイピング。質より量。

全工程において、ソーシャルデザインの起点はであるということを強調している。自分のできる範囲での課題解決を、自分の意思で目指す。それが「ウィズ資本主義」のためのコミュニティ作りの第一歩となるなのだろう。

自分は「どこ」で「何」がしたい?

多くの人にとって「本当に大切なモノはなにか」を問うきっかけになったであろう新型ウイルスの蔓延。それは僕も例外ではなく、人間関係、仕事、衣食住、将来といった様々な軸で、自分の“今”を強く疑い続けた一年間だった。その中でも最も大きな問いのひとつが「ささやかではあるが決してゼロではない(と信じたい)我がスキルセット。それを活かす先が、果たして目の前のこの問題で本当にいいのだろうか?」というもの。

「今年手放してよかったもの」

資本主義に抗わず、欲に従って延々とお金や承認を追求し続けるのもひとつの生き方であろう。

しかし「本当に大切なモノは何か」を問い続けた一年を経て、僕は絶対にその道を歩みたくないとの結論に至った。「マインドフル」であることの効用を実感しつつある中で、生きがいや安らぎ、充実感は、目の前の人やモノに集中して、それらを慈しむことによってのみ得られると身を持って知ったからだ。

目の前の人やモノへの慈しみ、それはまさに先に挙げた「小さなコミュニティ」に依る価値観に準ずるものであり、それは資本主義社会における殺伐とした希薄な関係の中で生じる「欲」「怒り」「妄想」といった感情の対極にある。

こういった「ローカル」を重視する考え方は、コロナ禍においては極めて自然なものであると思う。「行きたいところに行けない」「会いたい人に会えない」ならば、その地に根ざして「ノマディズム」を体現すればいい。一連の読書体験を通して授かった先人の知恵を活かしつつ、社会とのつながりという意味で、今年は「広さ」よりも「深さ」を大切にしたい。

  • 地元
  • 祖父母が他界してから放置されている山奥にある父親の実家
  • 今年は東日本大震災から10年。あの年に引っ越し、そこから4年間を過ごした東北の地
  • 母親が就いている小売店員や介護といったエッセンシャルワーク
  • これまで訪れた国内外の大好きな土地。“あの”山や“あの”飲食店、そして“あの”人
  • ...

根を生やし、コミュニティを構築できるチャンスは至るところに転がっている。今一度「自分が何をしたいのか」を問い直し、アクションを起こしていこう。

一点、「共同体」「コミュニティ」「社会」という言葉は抽象的であり、その対象となる人数・規模・範囲を限定していない点は注意が必要だ。資本主義とうまくやっていくために、「日本全国」や「全世界」、「所属している組織の“みんな”」といった母集団全体をみる必要は無いことがわかった。しかし、だからといってムラ社会的な小さすぎる集団は不自由極まりなく、そこに経済が生まれないため永続的な発展も望めない。

アトリエインカーブは150人のチーム、クルミドコーヒーは西国分寺という街がその主体であった。同時に、重要なのはそういった小さな組織の内外で発生する「人」を介した贈与に基づく相互作用であり、それが組織に血を通わせ、エコシステムを構築していた。それこそが持続可能性の根源であり、それぞれの定義する「コミュニティ」は、読者の想像をはるかに超えた複雑に絡み合ったものであることは想像に難くない。

ローカルでもっと深く、もっとマインドフルに。2021年も、皆さまにとって充実した一年間でありますように。

  書いた人: たくち

たくちです。トレジャーデータでデータサイエンス・機械学習のプロダクト化および顧客への導入支援・コンサルティング、そして関連分野のエバンジェリズムを担っています。趣味は旅行、マラソン、登山。コーヒーとお酒とハンバーガーが好き。長野県出身。ブログへのご意見・ご感想、お仕事のご依頼など、@takuti または [email protected] までいつでもお気軽にご連絡ください。

※当サイト上での発言は個人の見解です

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