持続可能性と資本主義—それらは必ずしも相反する考え方であるとは限らない。少し前に長坂真護氏の掲げる「サステナブル・キャピタリズム」という考え方に触れて以来、その可能性についてあれこれ考えている。後述するようにこのブログでも折に触れて言及してきた話題ではあるが、最近また改めて、自身の日々の選択を批判的に振り返ることが増えた。
「地球にとって良いことか、悪いことか」「儲かるか、儲からないか(あるいは非営利か)」「自分にとって“分かりやすい”効用はあるか、無いか」このように結論を急ぎ、問題を過度に単純化してはいないだろうか。なぜなら、そのほうが取るべき行動が明確で“楽”だから。
しかし、これまでの技術・経済・文化の発展があってこその今の生活であり、資本主義は悪であると結論づけて歩みを止めるのはスマートであるとは思えない。一方で、地球が様々な問題を抱えていることは紛れもない事実であり、それに対して見て見ぬ振りをすることなどどうしてできようか。
“分かりやすい選択”に付きまとう不安
どちらかにラディカルな例を挙げるのは容易い。
例えば前職。近年の自身の価値観の変化によって最終的には船を降りたものの、利潤追求(=製品の普及と提供者・顧客双方のビジネスの拡大)に振り切った姿勢もまた尊重されるべきアイデンティティであり、その点において僕は「組織が変わるべきである」などとは思わない。
パンデミックを経て、お金ではない、ミッション、ビジョン、あるいはパーパス(目的)を軸とした振る舞いをしたいという気持ちが非常に強くなった。その基準で考えたときに、(中略)いかにもミレニアル世代的な物言いになってしまうが、社内でサステナビリティの「サ」の字も聞かない、利潤追求まっしぐらな世界観も退職を後押しした一因である。—カナダで転職して、プロダクトマネージャーからソフトウェアエンジニアに戻った。
目的が何であれ、芯の強さとしなやかさは組織の原動力となる。それを恒久的に徹底すれば組織はきっと“成長”を続け、いずれ何らかの形で「世界を変える」だろう。しかし僕が問題に感じているのは、売上を唯一の指標にした場合において、いずれ社会に与えうるインパクトは必ずしもポジティブなものであるとは限らないという点だ。
他方、山奥で電気・ガスに依存せずに暮らしますとか、飛行機は絶対に乗りませんとか、慈善事業なのでお金は要りませんとか、そんな人も世の中には一定数存在する。確かに地球には優しいし、それが“偽善”であれ“贈与”であれ、思想を行動につなげる姿は見習いたい。しかし気をつけなければならないのは、社会問題は往々にして相互依存の関係にあるということだ。
環境問題に対するアクションの代表例であるエコバック。手軽に「良いことをしている感」が得られる一方で、我々がエコバックそれ自体の生産工程まで想像することは稀である。挙げ句、人々はデザイン性やブランドを求めてエコバックを「消費」するようになる。重大な社会問題に対してこのような小手先の対策ばかりを講じている状況を指して、本書(『人新世の「資本論」』)は「SDGsは大衆のアヘンである」という強いメッセージを発する。その場しのぎで麻酔を打ち続けても、結局は問題の先延ばしにしかなりえないのだ。—「今年手放してよかったもの」
ある一側面だけに着目してアクションを起こしても、それが他者(他国)の雇用機会・賃金の低下や社会的分断の加速といった形で負を生み出している可能性がある。
“欲張りな選択”の価値
ゆえに、二者択一で思考停止に陥らないことが大切であると僕は思う。
例えばビル・ゲイツが著書 "How to Avoid a Climate Disaster" で書いていた原子力発電の話。「クリーンエネルギーが必要なので継続稼働」対「危険なので廃止」という二択から外れた、第三の選択肢としての「原子力発電を安全にする技術への投資」。同様に、自動車に依る温室効果ガスが問題なのであれば電気自動車の開発と普及を目指すし、D&Iを促進するためには「(大切なものは大切なのだ、という論理を欠いた)受容」対「拒絶」ではなく、まずは互いを知るための機会を持つことが肝心なのではなかろうか。
そのような“欲張り”な姿勢で議論がなされない限り「SDGは大衆のアヘンである」という主張は生々しくそこにあり続けるし、一昔前のCSR(社会的責任)のように中身のない建て前で持続可能性を謳うのであれば、どちらかに振り切った方がまだ潔い。
スラム街のゴミからアートを作り、それで得たお金をスラム街に還元する。だから僕らがしているのは、ゴミを減らし、経済性に貢献し、文化性も高め、そして世界中に環境問題のメッセージを伝える活動です。(中略)つまり価値を共有をしながら経済発展に貢献しよう、という考え方です。僕は、これが本当の意味でのサステイナビリティ(持続可能性)だと思っています
新たな資本主義「サステイナブル・キャピタリズム」を追求する異色のアーティスト“長坂 真護”の哲学とは? | 【ICC】INDUSTRY CO-CREATION
「十分に稼ぎながらも、その利益を事業に再投資」競争による資本の形成と持続可能性を促す事業の継続を同軸で考える方法。これは『じぶんローカライズ元年:慈しみから生まれる深いつながりを目指して』で見た“小さな経済圏”のアイディアにも通じる。
資本主義とうまくやっていくために、「日本全国」や「全世界」、「所属している組織の“みんな”」といった母集団全体をみる必要は無いことがわかった。しかし、だからといってムラ社会的な小さすぎる集団は不自由極まりなく、そこに経済が生まれないため永続的な発展も望めない。アトリエインカーブは150人のチーム、クルミドコーヒーは西国分寺という街がその主体であった。同時に、重要なのはそういった小さな組織の内外で発生する「人」を介した贈与に基づく相互作用であり、それが組織に血を通わせ、エコシステムを構築していた。それこそが持続可能性の根源であり、それぞれの定義する「コミュニティ」は、読者の想像をはるかに超えた複雑に絡み合ったものであることは想像に難くない。—じぶんローカライズ元年:慈しみから生まれる深いつながりを目指して
大成功を収めて億万長者になることを目指そう、という話ではない。手の届く範囲内で着実に、需要と供給のサイクルを有機的に回すのだ。今この時点において僕は、そのほうが長い目で見たときにずっと遠くへ行くことができるのではないかと考えている。
大企業が持続可能性を追求することの意義
では、資本主義ど真ん中をいく大企業の取り組みはどう捉えるか。はたしてそれは、サステナブル・キャピタリズムの文脈で語れるものなのだろうか。
言うまでもなく、世界規模でビジネスを展開する組織は日々確実に、無視できないレベルで環境負荷や格差を助長している。同時に、小さな正の変化を大きな社会的影響に増幅させるだけの力を備えている点も見過ごしてはならない。つまり現代において、そのような組織の中で成される全ての意思決定には相応の責任が伴い、良くも悪くもケタ外れの体力・基盤を備えた大企業にしかできないことは存在する。
昨今、Facebook, Amazon, Apple, Netflix, Googleには“建て前”では済まされないレベルで持続可能性へのコミットメントが求められている。それが当たり前なのだ。初等教育の現場でさえSDGsが語られる時代において、なんの行動も起こせない企業は即「イケてない」の烙印を押され、若手のタレントはどんどん離れてゆくのだそうだ。
- Sustainability at Facebook: We commit to becoming water positive by 2030.
- Amazon Sustainability: Further and Faster, Together. Net-Zero Carbon by 2040.
- Apple: We’re carbon neutral. And by 2030, every product you love will be too.
- Netflix: Net Zero + Nature. Net zero greenhouse gas emissions by the end of 2022, and every year thereafter.
- Google Sustainability: Carbon neutral since 2007. Carbon free by 2030.
各社の取り組みをざっと眺めると、データセンターやオフィスビルでの再生可能エネルギーの利用、製造からラストマイルまでのサプライチェーンの見直し、社内における賃金の公平性およびD&Iの加速など、共通項が見えてくる。数万〜数十万人を抱える組織が本気でそのような問題に取り組んだ先にある未来、それは一体どのようなものだろうか?
「1時間のビデオストリーミング再生は100g程度のCO2排出に紐づきます」といわれてもあまりピンとこないし、ひとりのユーザとして自分が取るべきアクションとその効用は曖昧だ。対照的に、それを実質ゼロにする術を大企業が本気で模索し、マスに向けて実装することができたとしたら?
このように大企業には大企業の役割があり、それもまた「サステナブル・キャピタリズム」を考える上で欠かせない要素なのではないかと僕は思う。
先進国で快適に暮らしている限り、僕らはどこまでいっても「なんちゃって課題解決」によって生じる矛盾を抱え続けることになる。良かれと思った行動の裏にも、どこか必ず環境負荷・社会問題を助長する因子が存在するのだ。かといって、工業製品や近代的なインフラに依存せず原始的な生活に回帰するという考え方は筋が良いとは思えない。サステナビリティとキャピタリズム、あるいは保全と開発・発展—その両立をいかにして成し遂げるか。我々にはその問題について学び、考え続ける義務があるのだと思う。—「山」を通して考える持続可能性─Courseraの"Mountains 101"を受講して
日々の生活の中で変化や相容れぬ者の存在・主張を拒み、無意識のバイアスによって短絡的な判断・批判を繰り返してしまうことは避けられない。だからこそ、まずは“歩き続ける”ことを大切にし、昨日よりも今日、今日よりも明日はより良い選択ができるように精進するのみである。
なお、Wikipediaに記事もあるように、英語文献では少し異なる(あるいはより示唆的な)文脈で "Sustainable Capitalism" が語られているようだ。それについてはまたの機会に。
この記事に関連する話題: プロダクト開発者に求められる、これからの「倫理」の話をしよう。シェアする
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最終更新日: 2022-01-18
書いた人: たくち
Takuya Kitazawa(たくち)です。長野県出身、カナダ・バンクーバー在住のソフトウェアエンジニア。これまでB2B/B2Cの各領域で、Web技術・データサイエンス・機械学習のプロダクト化および顧客への導入支援・コンサルティング、そして関連分野の啓蒙活動に携わってきました。現在は主に北米(カナダ)、アジア(日本)、アフリカ(マラウイ)の個人および企業を対象にフリーランスとして活動中。詳しい経歴はレジュメ を参照ください。いろいろなまちを走って、時に自然と戯れながら、その時間その場所の「日常」を生きています。ご意見・ご感想およびお仕事のご相談は [email protected] まで。
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