『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』を読んだ(Audibleで聴いた)。資本主義の「すきま」、この考え方がポイントだ。
贈与的価値観の意義は『じぶんローカライズ元年:慈しみから生まれる深いつながりを目指して』にも記したとおりであり、それ自体は何も驚くことはない。『持続可能な地域のつくり方』や『ゆっくり、いそげ ~カフェからはじめる人を手段化しない経済~』で語られる、「特定多数」のコミュニティ内での不等価交換・非貨幣経済に依る“ちょうどいい”価値の創出。そこにこそ、資本主義というシステムとうまく共存するためのヒントが隠されていた。
しかし一方で、それらはある種の理想や特定の成功事例を紹介したものにすぎず、自分の中で「資本主義」と「贈与」は未だ水と油のような存在であることもまた事実。
理想は「贈与」としてのアートだろう。 [...] しかし現実は、「資本主義に反対なのでお金は不要です」という態度をとれば生活が困窮するだけ。現代社会で生きている限り、最低限のお金は必要である。
その点、本書は「贈与」の定義を丁寧に紐解きながら「資本主義の中にあってこその贈与なのだ」という新たな視点を与えてくれた。
- 贈与とは「(他者から贈与を)受け取ってしまった」という負い目に起因する、極めて衝動的かつ自己中心的な行為
- 「当たり前の日常」こそが他でもない過去の“誰か”からの贈与であり、僕らは既にそれを
受け取ってしまっている - 常識的に考えれば不合理極まりない贈与の存在。そんな資本主義のルールから外れた価値観が、殺伐としたシステムの「すきま」を埋めている
贈与は「受け取ること」から始まる
明らかに不等価な何かを受け取ったことに気づいたとき、僕らはその「貰ってしまった」という“申し訳無さ”から、それを送り主または他の誰かにパスすることになる。年賀状やプレゼントを受け取ってしまえば、それを返さずにはいられない。親から受けた愛を理解してしまえば、同等の愛を自身の子に対して注がずにはいられない。僕らを贈与へと駆り立てるのは、そんな使命感に他ならない。
ゆえに「受け取ること」こそが自分にとっての贈与の起点であり、もしも“申し訳無さ”を感じていないのであれば、一体どうして自己犠牲を払うことができようか。
「(等価な)交換」と「(不等価な)贈与」。前者はその都度“精算”されるワンショットなものである一方、後者は各人がパスを受けて次に繋いでいくことで連鎖し、世界に“滞留”するものなのだ。
そんな見地に立ってみると、何が「非贈与」かも見えてくる。
たとえばボランティア活動。贈与・自己犠牲の代表例と思われる営みであるが、その動機が「相手の喜ぶ顔が見たくて」「ありがとうの声が聞きたくて」なのだとしたら、それはもはや「喜ぶ顔」や「ありがとう」といった見返りを求めた「交換」ではなかろうか。
あるいは仕事。心から楽しめる仕事で、スキルもマッチしている。どれだけ働いても苦ではない。しかし、それだけでは収入やキャリア、スキルとの「交換対象としての仕事」の域を出ず、贈与的営みに身を投じているとは言えない。天職とは、それらに加えて「自分がやらねば」という使命感を伴ったものを指すのだと筆者は言う。
このように交換とは、必ずしもモノとモノの間に成り立つものではない。人間関係において「ポイント稼ぎ」のために損得勘定で動くことや、誰かに見てもらうこと・評価されることを前提として「良いことをしている自分」「頑張っている自分」を演じること。意識的であろうとなかろうと、そんなふうに行動の裏に何らかの打算が働いているとき、それは未来に得られるであろう“何か”との「交換」になってしまっている。世間ではそれを偽善と呼ぶ。
繰り返す。贈与とは本来、「受け取ってしまった」という負い目に起因する、極めて衝動的かつ自己中心的な行為であるはずだ。
他者の存在を意識したとき、それは贈与ではなく交換となる。究極的には、自身が贈与者であると名乗らないことが贈与の条件であるとも言える。受け取った側がしばらく後に振り返ってようやく「実はあれって贈与だったのか」と気付くくらいくらいが贈り物としては丁度いい。逆に、送る側は「この贈与は届かないかもしれない」くらいの気持ちで、いつか遠い未来に誰かに気付いてもらうことを祈るくらいが丁度いい。
他者からの贈与に気付くこと
—じゃあ何だ。なにも貰った覚えのない自分は贈与者としての資格が無いということか?匿名で慈善活動をするメリットなどどこにある?
本書の贈与の定義を素直に読み取ると、当然そんな疑問が湧いてくる。
しかし気付いていないだけで、本当は無数の名もなき贈与者からの「贈り物」を僕らは日々受け取っているのだ。これが本書のタイトル『世界は贈与でできている』に込められたメッセージと言えよう。
先述の通り、贈与とは“誰か”が使命感にかられて生みだしたものであり、目立った形で「これは○○さんによる功績です」とアピールされるような代物ではない。対照的に、極めて自然に日常に溶け込んでいて「え、そうだったの?」と忘れた頃に気づかれるくらいが、贈与のあるべき姿なのだ。
換言すれば、僕らにとっての「当たり前の日常」こそが、他でもないそんな“誰か”からの「贈り物」の実体なのだ。
ゆえに、目の前の日常を疑い、意識的に再発見することで、僕らは名もなき贈与者が獲得した「当たり前」の受取人となり贈与のバトンを繋ぐ資格を得る。それは『「マインドフル」であることの効用を実感しつつある』で書いた営みにも通じるものがあるだろう。
昨日は山を歩いていた。道中に当たり前を疑ってみると、よく整備された登山道だって過去の“誰か”からの贈与に他ならず、自分はそれを
贈与が埋める、資本主義の「すきま」
何者かが使命感にかられて衝動的に生み出す「贈り物」、それは極めて不合理なものだ。だって、そんなもの一銭にもならないかもしれないし、未来永劫誰にも気付かれないかもしれない。
だが、その不合理さが尊いのだ。
市場経済・等価交換が合理的であるからこそ、不合理な Anomaly(外れ値)としての贈与の存在が成立する。当たり前を揺さぶり、贈与の「すきま」をつくること。理想とする「特定多数」のコミュニティは、そんな「すきま」の中で生まれ、育まれていくものなのだろう。
贈与者は、不確実性の中でその贈与が未来の誰かに届くことを祈った。ならば、それに気づき、受け取った僕らの存在自体が贈与者に対するレスポンスとしての「贈与」となるのだと筆者は言う。
贈与は与え合う物ではなく、受け取り合うもの。受取人の想像力から始まる贈与。健全な、手触りの温かい資本主義はその先にある。(『世界は贈与でできている』本文より引用・一部改変)
「あなたは何を受け取った?」
取り組むべき問題を見つけ「自分ごと」化するためのカギは、きっとそこにある。
なお『「今年手放してよかったもの」』で書いたように、地球規模で資本主義というシステムの再構築が必要な状況に置かれていることもまた事実だ。僅かな「すきま」で適当な幸福感・充実感を得ようというのは、資本主義の恩恵にあずかっている10-20%の先進国のエゴなのだろう。より深く手を突っ込んで、その「すきま」をグッと拡げる必要があることは覚えておきたい。
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最終更新日: 2022-01-18
書いた人: たくち
Takuya Kitazawa(たくち)です。長野県出身、カナダ・バンクーバー在住のソフトウェアエンジニア。これまでB2B/B2Cの各領域で、Web技術・データサイエンス・機械学習のプロダクト化および顧客への導入支援・コンサルティング、そして関連分野の啓蒙活動に携わってきました。現在は主に北米(カナダ)、アジア(日本)、アフリカ(マラウイ)の個人および企業を対象にフリーランスとして活動中。詳しい経歴はレジュメ を参照ください。いろいろなまちを走って、時に自然と戯れながら、その時間その場所の「日常」を生きています。ご意見・ご感想およびお仕事のご相談は [email protected] まで。
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