第二次トランプ政権の発足からしばらくして、アメリカ政府の外国援助機関・国際開発局(USAID)の廃止というニュースが飛び込んできた。合衆国政府の独立機関として、USAIDは世界各地の紛争、災害、健康、経済、教育など多岐にわたる課題に対して資金、物資、人的な援助をしてきた。その影響範囲は、文字通り地球規模だ。
そんなUSAID関連プロジェクトの一時停止が各位に通達されたのは、対外支出の90日間凍結という大統領令が発出されてすぐのこと。さらに、「支出見直し」および「ガバナンス強化」を目的とした機関廃止および再編成案によって、今後の見通しは一層不確かなものとなった。一時は完全にダウンしていた機関のWebサイト (https://www.usaid.gov/) は、執筆時点では空白のページが表示されるのみである。
僕は2023年7月から、世界最貧国のひとつに数えられるアフリカの小国・マラウイに滞在している。USAIDのような国際援助機関による活動が盛んなこの地でも、今回のアメリカ政府の方針によって明日の仕事がなくなったひとや、与えられるはずだったモノが与えられなくなってしまったひとが一定数いると聞く。それに対する国内のリアクションは、「そんな、ひどい!」という批判派と「悲しいけど、現状を見つめ直すいい機会だよ」という受容派に大別される印象だ。もちろん、大多数の「USAID?何それ美味しいの」という無関心層を除けばの話だが。
ここではそんな現地の「今」と、僕個人の所感をざっくりとまとめておきたい。国際開発の文脈で俯瞰してみたとき、本件に学ぶべき点がいくつかあるように思うのだ。なお、合衆国政府による方針の善し悪しを断定する意図はない。そんな議論と帰結は、陰ながら米国民に期待する。
「救い」を一本化しないことの重要性
人生設計にせよ、趣味にせよ、ビジネスにせよ、政策にせよ、なにかひとつの「救い」に100パーセント依存するというのは、あまり筋がいいとは言えない。それがまさに、援助される側の国々やコミュニティが陥っている状況なのだが。
不慮の事故や災害に備えるべくして保険というものがあり、「一生安泰」な仕事など無いのだから常に半歩先を見据えたキャリア設計が重要になる。投資ではポートフォリオを分散させるものだし、コンピュータシステムにおいて冗長性を担保することは基本中の基本だ。推しや親しい友人が一人だけだと、もし仮に彼や彼女を失った時のダメージは計り知れない。
人道支援から開発援助まで、USAIDが世界各地で重要な役割を果たしていたのは事実だろう。しかしその恩恵にあずかる人々が、そんなふうにUSAID以外の支援によって「救い」を冗長化しなかった――あるいは、できなかった――ことは、単にシステム的な欠陥であるように僕には見える。
ひとつの国の、たったひとつの政府独立機関からの支援が途絶えてしまった「だけ」なのだ。それなのに、現場の人々はこんなにも慌てふためいている。そもそも、援助元としてUSAID以外の選択肢はなかったのか?あったとして、なぜUSAIDでなければならなかったのか?このような状況に陥るリスクは、想定されていなかったのか?
支援の基盤がこれほどまでに脆弱であったのなら、果たして世界はこれまでいったい何をやって、学んできたというのだろう。
腐敗した開発プロジェクトが散乱している現実
そもそも、これまでの援助の有効性さえ疑わしいと、僕は感じてしまう。若輩者ながらアフリカの小国で一年半ほど開発活動に従事してみて、これは割と確かな感覚だ。
現地のコンテクストに寄り添わない、西欧のトレンドをコピペしただけの価値観押し付けプログラムや、中長期的視点に欠けた付け焼き刃的なプロジェクトの多いこと多いこと。そして、出張時などに給料とは別で支払われる「日当」、それを目当てに仕事を選ぶ人々がそこかしこにいる。もちろん、みんながみんなそうとは限らない。しかし贔屓目にみても、従事者たちのプロセスに染みついた「それ」は、怠惰であり腐敗の一端であると言わざるを得ない。
対照的に、資金提供者に届くのは美しく彩られた「サクセスストーリー」の数々なのだが、残念ながらその舞台裏や後日談が語られることはほぼ無い。結果として、世界の「こっち」側と「あっち」側で、見えている光景は随分と異なる。
僕個人はUSAID関連のプロジェクトに直接関わったことはないので、状況がどれだけ似通っているかは分からない。一方で、これまでに複数の援助機関とのプロジェクトに携わり、このような話題に対する周囲の同業者たちの反応を見てきた。そんな観測結果から仮定するに、結局、どこも似たり寄ったりなのだ。
その援助金がどこからきていようが、控えめに言って「どうでもいい」――現場の人々が平気でそんな振る舞いをする場面を、幾度となく目撃した。ならば、このような環境に流れ込むお金を支出している人々がそれを「不要」とみなし、これからは援助の対象を厳選しようと考えたとして、それは一理あると言わざるを得ない。
「自立する」という選択肢
他方、贈り物を受け取る側である現地の人々にとって、今回の混乱は案外「良い刺激」となっているようにも僕の目には映る。突如突きつけられた「支援は有限であり、いつか突然途絶えうる」という事実が、彼らの焦燥感を煽る。これまで「中長期的な視点で未来に投資する」なんて発想がなかった者にとって、それはまるで冷や水を浴びせられたような感覚だろう。
果たしてここから先、受け手の姿勢、マインドセットは何か変化するのだろうか?
後先考えず、お金さえもらえれば手段は問わないという人が、今日のマラウイにはとにかく多い。「トランプ、この国を買っていい感じにしてくれないかな」とか、「イーロン・マスク、南アフリカ出身だし、ルーツのアフリカにお金配ってくれたりしないかな」とか真顔で言う人が、本当にいるのだ。大富豪である彼らを一投資家と考えたとき、そんな受動的な人々(と、資源的にみてパッとしない土地)にベットするとは、僕には到底思えないのだが……。
そんな他人よがりな思考から脱却し、自分たちで何ができるのかを考える――USAID廃止の報道が、そんなふうに自国の価値を問うキッカケになることを、切に願う。事実、Self-reliance(自立)やそれに近しい表現を、僕は過去数週間で一生分くらい見聞きした。そこには、過度な輸入依存に起因する昨今の外貨不足を打破するカギだって、あるのかもしれないのだ。
与える側と与えられる側、双方の論理と倫理
そんなわけで幸か不幸か、USAID廃止案は、国際開発の現場における種々の根深い問題を改めて浮き彫りにした。この点において、一連の報道は少なくとも部分的には有意義であったと言えよう。
とはいえ、富、地位、名声といった「力」を持つ人々の一存で一方的に支援を打ち切ることが倫理的に許されるとは、僕は思わない。実際問題、細い細い支援の糸にしがみつきながら今日明日をギリギリ生きているという人が、僕のすぐ近くにもごまんといる。そんな人々の希望の光を、「大人の事情」で消し去っていいはずがない。
あるいは、日常を満たす贈与の存在に鈍感であった、与えられる側の倫理を問うべきだろうか。確かに、先に挙げたような惰眠を貪っていると言われても仕方のないような振る舞いは、ちょっと擁護できそうにない。そもそも、匿名でバトンを繋いでこその贈与なのだから、外国旗を振りかざす国際援助の行きすぎた非匿名性については一考の余地があるわけだが。
与える側と、与えられる側。双方は、おそらくどこまでいっても分かり合えない――そう割り切ってしまえたら、どれだけ楽だろうか。
この混乱を「現状を見つめ直すいい機会だ」と前向きにとらえる人々は総じて、アフリカの中でも経済的・社会的に恵まれた人々である印象を受ける。そして、それは僕自身も例外ではない。彼の国の立場を慮れば、USAID廃止だっていくつかの点において理解はできる。しかし、それだけ想像力を働かせられること、あるいは未来志向で現状を客観的に分析できること自体が、自分が恵まれた環境にいる何よりの証拠なのだ。
今の僕には、未来を想像することすら叶わぬ本当の痛みが、どうしたってわからない。そんな「個」の無力さを補い、限られたリソースを最大限に活用し、圧倒的なスピードで成果を上げることこそが、USAIDのような独立機関の本来の存在意義であるはずなのだ。元USAIDトップで、ゲイツ財団ではエボラ出血熱の撲滅に向けて闘ったRajiv Shah氏の著書『Big Bets: How Large-Scale Change Really Happen』からは、そんな希望に満ちたメッセージが読み取れる。
世界は多面的で、複雑だ。今回のUSAIDにまつわるアメリカの方針が吉と出るか凶と出るか、その長期的な影響は誰にもわからない。そして、そんなひとつひとつの意思決定の背後にあるのは、さまざまな思惑と、理想と現実のギャップだ。同時に、世界中の誰もが「人」のためを思って、その人なりの価値観に基づいて行動しているわけで。そこに、日常の延長線上に存在する生命、あるいは自然に対する「慈しみ」さえあれば、今はそれで十分ではないか。
ともすれば、その「慈しみ」という概念を共有して育むことこそが、無力な個人にできる世界への最大級の貢献なのかもしれない。
この記事に関連する話題: デジタル・マラウイ:人道的かつ倫理的、そして持続的なテクノロジーのあり方
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最終更新日: 2025-02-20
書いた人: たくち
Takuya Kitazawa(たくち)です。長野県出身、カナダ・バンクーバー在住のソフトウェアエンジニア。これまでB2B/B2Cの各領域で、Web技術・データサイエンス・機械学習のプロダクト化および顧客への導入支援・コンサルティング、そして関連分野の啓蒙活動に携わってきました。現在は主に北米(カナダ)、アジア(日本)、アフリカ(マラウイ)の個人および企業を対象にフリーランスとして活動中。詳しい経歴はレジュメ を参照ください。いろいろなまちを走って、時に自然と戯れながら、その時間その場所の「日常」を生きています。ご意見・ご感想およびお仕事のご相談は [email protected] まで。
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