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2023-10-30

貧困、粗削りなインフラ、身近にある死─アフリカ・マラウイから考える、娯楽や幸福のかたち。

  この記事に関連する話題: デジタル・マラウイ:人道的かつ倫理的、そして持続的なテクノロジーのあり方

幸せについて、考えてみよう。

アフリカ大陸南東の内陸国・マラウイで暮らす今の自分と、先進国(日本あるいはカナダ、その他欧米の滞在先)で暮らしていた過去の自分のどちらが「幸福」であるかと問われると、正直イロイロなことが分からなくなってくる。

確かにここは世界最貧国のひとつであり、1日2ドル未満の最低賃金でみんなが今日を精一杯生きている。「未来」を語るにしても1年後を想像するのがやっとといった様子で、5年10年スパンの戦略はどこか現実味に欠ける。電気・水道・インターネットといったインフラは必ずしも安定しているとは言えず、定期的なブラックアウト(計画停電)や、上下水道を含む公衆衛生上の課題、不十分な通信環境とデータ量制限などが「落ち着いた暮らし」を許さない。

そんな環境であるから、人々の関心はもっぱら「今この瞬間」の成果・幸福の最大化であり、事業の持続可能性は絶望的に乏しく1、人間関係はオープンでありながらどこか浅い印象を受ける2。人生100年時代?ご冗談を。死の存在はもっとずっと近くにあって、友人・親族が若くして病気や交通事故で亡くなった(あるいは消息を絶った)という話のひとつやふたつは誰もが持っている。そして彼ら彼女らはそれを「よくあることだから」と、どこか割り切った表情で振り返る。

しかし、だからこそ目の前の問題には妥協しない。今すぐにお金が手に入るチャンスがあれば飛びつくし、(すでにパートナーや子どもが居たとしても)欲望には忠実に従ってカジュアルに性的関係に至ることもしばしば。と同時に、国民の約8割を占めるキリスト教文化の下で、誰もが明日の健康と平和を祈っている3遺言状を執筆した上で「5年後くらいには死んでるかも」というメンタリティで生きている僕がそんな価値観を口にすると、割と真面目に「そんなことは冗談でも言うもんじゃ無い」と諭される。難しい。

前提として語られるべき“人間らしさ”の話

もちろんその全てを肯定するわけでは無いが、マラウイでの暮らしは、そんなふうにどうしようもなく“人間らしい”。他方、文明が発展すればするほど、僕らの暮らしは複雑になり、実体の伴わない「何か」を求めて満たされぬ日々が続く。足るを知る、ということは大切だ。昨年、電気・ガス・水道・ネット無しカヤック1週間アイランドホッピングの旅で体験したように、制限された環境において人・地球・自分自身との「つながり」を感じることは呼吸をするに等しく自然なプロセスで、それはえも言われぬ多幸感と充足感をもたらしてくれる。

そんな視点でデジタル化が遅々として進まぬマラウイの現状を見つめ直すと、楽しく幸福な人生を送るためには案外これも悪く無いんじゃないか、という気持ちになってくる。もちろん、テクノロジーは我々の生活を「より豊か」にしてくれるし、先進国のような暮らしは安全で、健康で、おいしくて、「より良い」。それでも、どちらが幸せかなんて、わからないじゃない。

仮に人間らしさを置き去りにして技術実装がなされたとして、それにいったいどんな意味があるというのか。先進国で資本家が語る「成長」って、本当に必要なのだろうか。それよりも、ひとりのにんげんとして、もっと生々しいところに歓びを、満足を、幸福を見出すことのほうが有意義ではないか。岡本太郎は問うた、「型にはまった芸術に現れる“符丁”の中に自己はあるか?」と。

“人間らしさ”こそがデジタル世界の本質であると、僕は考える。どれだけデジタル化が進もうと、アプリケーションを作り、使うのが人間である限りにおいて、ヒューマン、ユーザ、あるいはカスタマーを中心に物事を議論することの重要性は強調してもしすぎるということはない。

現実をより鮮やかに彩る「媒体」としてのデジタル技術

リアル(現実世界)を起点にバーチャルな物事を相対化する。それは、最近読んだGabrielle Zevinによるベストセラー小説 Tomorrow, and Tomorrow, and Tomorrow に読み取れる姿勢でもあった。デジタルゲームを主題とし、ギークなキャラクターたちがゲームを介して交わり、成長し、壁にぶつかり、ゲームによって救われる・・・そんなミレニアル世代ブッ刺さりストーリーなので、同世代の日本人には是非読んでもらいたい。

少年少女がデジタルゲームに魅せられ、アメリカ東海岸・MITで開発者としての道を知り、西海岸でのゲームビジネスの興奮と葛藤を描く。その過程にあるのは、金、地位・名声、絶望、希望、友情、愛にまつわる、極めて“人間らしい”イベントの数々だ。デジタルゲームと共に育ち、それらコンテンツを介してテクノロジーのちからを知り、以後エンジニアとしてのキャリアを歩んできた人間として、僕はこの作品に特別な感情を抱かずにはいられない。ビットの世界は決して無機質なものではなく、現実世界と混ざり合った、どうしようもなく実体的なものである。ゆめゆめ、バーチャルな物事を絶対化しないことだ。

tomorrow-and-tomorrow-and-tomorrow ▲ オーディオブックで読んだのだが、たまたま訪れたマラウイの近所のレストラン(イタリア人がオーナー)にはペーパーバック版が置かれていて、その人気を実感する。

読み終えてふと、こんなアフリカの片隅でデジタルゲームについて思いを馳せている自分を客観視すると、なんとも不思議な気持ちになった。周囲には、僕の人生に影響を与えた任天堂の作品やオンラインゲームの数々について語る人は誰一人として存在しない。その背景には、マラウイという国のサプライチェーンやインターネット普及率、電力の安定供給といった点でのインフラの貧弱さや、ハードウェアが高価すぎるという貧困に依る経済的な理由があるのだろうと想像する。彼らの「デジタルゲーム無き人生」からすれば、Tomorrow, and Tomorrow, and Tomorrow のストーリーはファンタジーにさえなりうる4

しかし、だからといってデジタル技術からかけ離れたマラウイの暮らしが「遅れている」とも言い切れない。技術それ自体が重要なのではなくて、その周辺の人や環境、文化といったコンテクストとの相互作用に意味があるのだ。その点、むしろ与えられた制約の中で楽しみや生きがいを見い出して日々を生きる力強さは、先進国に暮らす人々の「それ」よりもはるかに「進んでいる」とさえ、僕は思う。少なくとも個人的にこれは真であり、ゲームも動画もオンラインショッピングも無いけれど、今この瞬間、ここ数年でこころは最も満たされ、安定している感覚がある。

娯楽にインターネットは必要か?

否。デジタル技術がなくたって、人類はずっと自らを満たす術を探究し続けてきたのだ。Tomorrow, and Tomorrow, and Tomorrow で登場人物のひとりが言及していたように、たとえば囲碁だって立派な「ゲーム」であり、碁盤と石を介して、古くから人々は交わり、成長し、そこに救いを見出してきたのではないか。ここマラウイにも、Bawoと呼ばれる古典的なゲームが存在し、人々は目の前にある物理的なモノだけでその時間を楽しむ術を心得ている。

bawo ▲ Bawoの盤面と石(ビー玉で代用)。盤上のすべての穴に石を2個ずつ置いた状態からゲームがスタートする。一度説明してもらったけれど、細かいルールは未だによくわからない。

あるいは、僕らはいつだって地球と一緒に遊ぶことができる。それはわざわざ第三国や秘境に足を運ぶほどのものでなくとも、町を歩き、時に走り、自然の中をハイキングし、湖を泳ぐといった、日常の延長線上に十分な楽しみがある。

scuba ▲ マラウイ湖でのシュノーケリングやカヤックはお手軽なアクティビティとして人気がある。なお、先日Aqua Africaで念願のPADI Open Waterスキューバダイビングライセンスを取得した。

“人間らしさ”こそがデジタル世界の本質である。

人間らしい娯楽や幸福のかたちにデジタル技術は必須ではないし、オーセンティックな人間としての営みに根差さない技術応用はあまりにも空虚だ。その空虚さこそ、消費と競争に依る先進国の社会構造が生み出す「毒」であり、おそらくそれが一人一人の「満たされなさ」の正体であるわけだが。

デジタル化がもたらす未来

ところで、2か月前からスターリンクがマラウイでもサービスを開始した人口の約8割が地方農村部に暮らし、いまだネットワークインフラが整っていないこの国において、これは素晴らしいニュースといえる。先日、スターリンクWiFiを導入しているロッジに泊まる機会があったのでオーナーにヒアリングをしつつイロイロと試してみたのだが、導入の手軽さ、回線速度、コストの面で、国内のネットワークインフラを根底から変えるほどの革新的なサービスであると感じた。

一方で、この「便利さ」が人々のあずかり知らぬところで急速に展開してしまうことによる、彼ら彼女らの娯楽と幸福のかたちの変化は懸念せざるを得ない。先進国の「成功」や「成長」の定義や、そこに向かうための「ベストプラクティス」は、ある途上国の文脈では必ずしも有意義であるとは限らない。そんなジレンマから目を逸らさず、国際開発の現場で一歩立ち止まる勇気もまた必要なのではないかと、僕は考える。

僕は技術者である以前に、にんげんである。そのことを忘れず、優先順位を間違えないように生きたいと、強く思う。

1. ボランティア活動の一環で現地の「起業家」たちと触れ合うわけだが、中長期的なビジョンや戦略、ファイナンシャルプラン、ひいては投資というアイディアそれ自体が存在せず、ビジネスと呼ぶことすら憚れる状態が散見される。友人や家族から援助された資金に頼り、地域の中で細々とモノ・サービスを提供するような話が一般的。現地の社会起業家やNGOを見ても、中長期的な議論よりも目先の助成金を獲得することばかりに目が行きがちで、その意義は甚だ疑問である。
2. "The Warm Heart of Africa"(アフリカの温かい心)と呼ばれるだけのことはあり、人々はとてもフレンドリー。しかし、そのフレンドリーさがどこか関係を希薄かつチープなものにしてしまっている印象も受ける。質より量な交友関係、とでも言おうか。そんな「ラフさ」が影響してかは分からぬが、男性諸君のアルコールやセックスに対する姿勢はカジュアルすぎて割とひどい。
3. 2018年時点で国民の77%がクリスチャンとのデータがある。日曜日の午前中はみんな教会へ行くし、ビジネスミーティングやカンファレンスはお祈りで始まり、お祈りで終わる。アーメン。
4. スマートフォン上でパズルゲームをプレイしている人は時々見かけるが、そのような量産型の暇つぶしが人生を変える出会いをもたらすとは、僕には思えない。
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最終更新日: 2023-10-30

  書いた人: たくち

Takuya Kitazawaたくち)です。長野県出身、カナダ・バンクーバー在住のソフトウェアエンジニア。これまでB2B/B2Cの各領域で、Web技術・データサイエンス・機械学習のプロダクト化および顧客への導入支援・コンサルティング、そして関連分野の啓蒙活動に携わってきました。現在は主に北米(カナダ)、アジア(日本)、アフリカ(マラウイ)の個人および企業を対象にフリーランスとして活動中。詳しい経歴はレジュメ を参照ください。いろいろなまちを走って、時に自然と戯れながら、その時間その場所の「日常」を生きています。ご意見・ご感想およびお仕事のご相談は [email protected] まで。

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