先日、友人に誘われてバンクーバーの Museum of Anthropology(人類学博物館)に行った。いや、人類学“美術館”と訳すべきかもしれない—そう思うほど、展示物に表れる多彩なクリエイティビティに圧倒された濃密な時間であった1。それはカナダ先住民によって形成された複雑な文化的基盤と、アメリカ開拓史によってもたらされた多様性に依るところが大きいのだと想像する。
「自分たちが今の仕事でどれだけ大きな成功を収めても、その成果がココに並ぶことは無いんだろうね」
ふと友人がそんなことを口にした。わかる。この気持ちは何というか・・・敗北感?
思うにそれは、トーテムポール、こけし、鎧兜、アクセサリ、織物、お面、陶磁器などが一様に展示される「人類学」というあまりにもノージャンルな空間だからこそ得られる感覚だったのではなかろうか。たとえば500年くらい前の日本の品々が展示されている。それだけでは「ふーん」で終わってしまうが、同じ空間に展示されているほぼ同年代の北米・アフリカ・東南アジア・ヨーロッパ・中東などで作られた展示品との対比によって、僕らは当時の世界をぐっと近く、よりリアルに感じることができる。
そうして見る展示物の数々は、そのひとつひとつにどうしようもなく「人」の存在を感じ、同時にどれひとつとして「打算」を感じさせないのだ。今となっては作り手の真意を知ることは叶わないが、「必要だから」「信じているから」「そういうものだから」といった目下の現実的な理由以外の制作の動機を我々に想像させないほどに、それは潔く美しい。
他方、効率の追求と資本の拡大を目的とした「打算抜きでは語れない世界」に生きる我々がモノを作る動機といえば、「もっと稼ぎたいから」「もっと便利にしたいから」といったものが主であり、そこに人間的な衝動や純粋さを感じ取ることは難しい。ゆえに僕は、根源的な“豊かさ”の点において劣等感を抱かずにはいられなかった。
紀元前〜文明のおこり〜産業化と、近代に至るまで世界はどこを見ても常に発展途上にあった。昨日より今日、今日より明日と、がむしゃらに追い求める“何か”が目の前に常に存在し、マクロ的に見れば人類の幸福度は進歩に応じて着実に増加してきた。
一方、近年では物質的な欲求は先進国を中心にほぼ完全に満足され2、どれだけモノを作って売って稼いで消費しても幸福度は大して変わらない、という虚しい状況にある。そんな伸びきったゴムのような世界で生まれたのが“問題を開発する”という革新的な分野であり、我々はそれを「マーケティング」と呼ぶ。様々な媒体を通してメッセージを発信し、もともと存在しなかったはずの需要を生み出し、過度に消費を促進する—そんなある種の非道徳さを孕んだ営みが、今日のビジネスの現場では当たり前に行われている。しかし、そこまでして必死に作って売って消費させて、一体何になるというのだろう。
様々なデータに基づいて真剣にそのような議論を行っているのが、書籍『ビジネスの未来――エコノミーにヒューマニティを取り戻す』だ。重要なのは、本書の内容が単なる資本主義悲観論に留まらない、極めて前向きで希望に満ちたものであるということ。
- シェアホルダーの利益を最大化するだけの“経済”の成長はほぼ上限に達しており、既に終了している。
- 我々の生活は物質的には既に十分満たされているのだから、もっと経済的合理性の外側にあることに目を向けよう。
- 社会は小さな“ゆらぎ”で大きく変わりうる複雑なシステムなのだから、変化を他者・組織に委ねず、勇気を持って内在的な衝動に基づいて行動しよう。
というのが本書に通底する主張・指針であると言えよう。そして、次の2つを「僕らが達成すべきイニシアティブ」として掲げている。
- 真にやりたいことを自分の中に見つけて、取り組む
- そこに対して積極的にお金を使う
では、打算無き「真にやりたいこと」「内在的な衝動に基づく活動」とはどのようなものか?
具体的に検討されているのは、「ローカル」や「幸福」といった非貨幣的な価値を変数としたビジネスのあり方である。それは、共同体に根ざしたソーシャルイノベーション、見返りを求めない無条件な贈与の連鎖、概念を伴わず、純粋に愛でることを目的とした浪費、といった形で現れる「行動せずにはいられない」「ただただ楽しいから」「とにかく好きだから」といった衝動的な営みであり、(少なくとも初期の段階では)そこに理屈や緻密なビジネスプランなどは存在しない。
もっと言えば、文化的贅沢を求める Business as Art の姿勢がカギなのだと著者は言う。アートを軸にした活動が「サステナブル・キャピタリズム」の考え方と親和性が高いのは、この視点に立ってみると必然なのかもしれない。「人間誰しも“芸術家”である」とは、かつて岡本太郎に教わった考え方である。
芸術に絶対的な基準など無いのだから、描くか描かないかが問題なのだ。下手でもいいから描いてみる。すると、自分に対して正直に、自由でありさえすればそれが人間性として表れ、芸術が生まれる。(中略)生きることも同じだ。生き方に絶対的な基準など無いのだから、問題はやるかやらないかしかない。成功しようとか、選択を間違えないように・・・などと考えず、思ったままにやればそれが人生だ。—岡本太郎に学ぶ、芸術と人生。
自分だけの「アート」を創造するためのマインドセットとして、著者は好奇心・粘り強さ・柔軟性・楽観性・リスクテイクの5つの軸を持つことの重要性を語っている。とにかく質よりも量、量があっての質であり、人生をどれだけ浪費して“偶然”を取り入れることができたかが結果を左右する。
人生を見つけるためには、人生を浪費しなければならない。(アン・モロー・リンドバーグ)
究極的には、真の“豊かさ”とはどれだけ自分のこころに素直になれたかに依るところが大きく、そこに客観的な評価・承認は不要である。僕らが積極的に行いたいのは「浪費」であって「消費」ではない。そして浪費を通して、忘れ去られた「当たり前」の中にある「人間らしさ」を基に経済・社会システムを捉え直すこと—それが本書のタイトル『エコノミーにヒューマニティを取り戻す』の意味するところであると、想像する。
人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。生きることはバラで飾られなければならない。—『暇と退屈の倫理学』序章 「好きなこと」とは何か?
食卓をバラで彩ることに理由を求め、目の前のパンひと切れをじっくりと味わう喜びさえ忘れてしまっているのだとしたら、どうしてそんな空っぽの人間が“人類学的に”有意義な存在となることができようか。
1. 9月までは東日本大震災×アートの特別展も行われていたらしい。見逃してしまった、残念。 ↩
2. 現在でも途上国の状況は大きく異なるが、そこで核となる問題は、経済的・地政学的な理由によって物品が“全員に行き渡らない”ために生じる格差である。例えば最近履修したオンラインコース "Public Health Perspectives on Sustainable Diets" 曰く、単純な生産量だけでみれば、地球上には既に“十分”な量の食料が存在するのだという。その点においては、やはり人類の物質的欲求はほぼ満足されたと言っても過言ではない。 ↩この記事に関連する話題: プロダクト開発者に求められる、これからの「倫理」の話をしよう。
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最終更新日: 2022-09-02
書いた人: たくち
Takuya Kitazawa(たくち)です。長野県出身、カナダ・バンクーバー在住のソフトウェアエンジニア。これまでB2B/B2Cの各領域で、Web技術・データサイエンス・機械学習のプロダクト化および顧客への導入支援・コンサルティング、そして関連分野の啓蒙活動に携わってきました。現在は主に北米(カナダ)、アジア(日本)、アフリカ(マラウイ)の個人および企業を対象にフリーランスとして活動中。詳しい経歴はレジュメ を参照ください。いろいろなまちを走って、時に自然と戯れながら、その時間その場所の「日常」を生きています。ご意見・ご感想およびお仕事のご相談は [email protected] まで。
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