自律性 (Autonomy) は大切だ。それは誰からも強制されることのない、自由な意思決定・行動プロセスを指す。たとえばAI倫理の文脈においては、ユーザの自律性を担保する(に足る透明性や公平性を備えた)アルゴリズムやインタフェースを提供することが、ひとつの重要な課題である。誰しも、何者かに操られたゾンビのような暮らしを望んではいない1。
しかし実際のところ、僕らの意思や行動を決定づけている価値観やアイデンティティは、外から与えられたものであることが多い。ある人は「夢」に向かって全力で頑張っているのだと言う。しかしその先にある「成功」が他者・社会によって決められたものであるならば、果たしてその努力はどれほど自律的であると言えるのだろうか。
一方、人間が社会的動物である限りにおいて、周囲との「つながり」の効用はあなどれない2。僕らは他者の存在なしには生きていけず、そこには法規範や社会規範の存在も必要となる。この点において、僕らの人生は部分的にはであると言えるかもしれない。多くの場合、それは連帯 (Solidarity) とも言い換えられるだろう3。
第三者の価値観や外部からの情報に極度に触れやすくなった現代において、この「自分は今、一体誰のものさしで、誰の人生を生きているのか」という問いの意義は深い。そしてその答えは、自分自身にしか見つけられないものである、と僕は思う。仮に僕が他人の暮らしぶりや振る舞いを憂いたとして、彼ら彼女らの「選択」を否定することがどうしてできようか4。
したがって、僕らひとりひとりが「真に己の人生を生きていると、胸を張って言えるか?」という問いにYESと答えられるような生き方を志すこと—それが人生における究極のタスクのひとつであると考えられる。もし、そこに赤の他人が介入する余地を見出すのであれば、学問・産業を通してそのような取り組みをサポートしうる思考・行動のフレームワークを提案することが精一杯である。
ここで個人的に想起するのは、ニーチェのニヒリズムに拠る実存主義の考え方である。彼の「超人」あるいは「永劫回帰」の思想は、己の存在・人生と積極的 ("activistic") に関わり、同じ人生を無限に繰り返しても良いと思えるような生き方を志すことを説いた。精神科医でロゴセラピー(実存分析)の生みの親 Victor E. Frankl は著書 Man's Search for Meaning の中でニーチェ哲学を繰り返し引用し、そのような生き方を貫けば「我々は苦悩の中にさえ人生の意義を見いだすことができる」と述べた。ナチス収容所での壮絶な日々から生還した Frankl の究極のメッセージは "Say yes to life, in spite of everything"(何があっても、己の人生を肯定せよ)である。周囲の環境をコントロールすることはできなくても、起こってしまった事象に対してどのように反応するかは、自分次第である5。
とはいえ、そのような心持ちで人生のタスクに取り組むことは容易ではない。僕らは常に誰か・何かにすがっていたいと願う生き物であり、平時においてはその方がはるかに「楽」である。しかし、それゆえに僕らはふとした瞬間に大切なものを見失い、虚無感に押しつぶされてしまうことになる。「幸福とは?」「現実とは?」「知とは?」宗教や哲学、神話の数々が何十世紀にもわたって同じようなテーマで議論を続け、発展してきた背景には、それなりの理由がある。ソクラテスは言った—"The unexamined life is not worth living" と6。
では、人生を "examine" するとはどういうことか?目の前の事象やそれを取り巻く環境にまつわる「対話」、特に「己との対話」がその実践の第一歩であるように、僕は思う。
仏教における瞑想やマインドフルネスはその好例であり、僕の理解する限りにおいてそれは、「いまここ」の感覚に全神経を集中させることの重要性を説く。実存主義的心理療法を教えるために精神科医 Irvin D. Yalom が執筆した物語 When Nietzsche Wept では、(架空のキャラクターとしての)ニーチェが仏教の僧侶に出会い、彼が目の前のたった一つにリンゴを慈しみ、じっくりと味わう姿勢に感銘を受ける様子が描かれている。周囲の環境がどうであれ、大切なものは「いまここ」、自分の内面にある。
"God is dead"(神は死んだ)の一言に代表されるニーチェの強烈なニヒリズムと「個人」への執着は、岡本太郎の生き方も想起させる。芸術に絶対的な基準など無いのだから「描くか描かないか」が問題であり、下手でもいいから、やってみる7。そんなふうに自分に正直に、自由に生きることの意義を説いた太郎とニーチェ哲学の接点は各所で指摘されており、この点は太郎自身も著書で言及している8。
興味深いのは、さまざまな「教え」に触れてきたであろう比較神話学者の Joseph Campbell さえも似たような指摘をしている点である。彼はたびたび "Follow your bliss"(己の至福を追求せよ)と言い、対話集 The Power of Myth (邦題:『神話の力』)では次のように述べている:
自分の幸福について知ろうと思ったら、心を、自分が最も幸福を感じた時期に向けることです。ほんとうに幸福だった時—ただ興奮したりわくわくしたりではなく、深い幸せを感じた時。そのためには、自己分析が少し必要ですね。何が自分を幸福にしたのだろう、と考えてみる。そして誰が何と言おうと、それから離れないことです。私が「あなたの至福を追求しなさい」と言う意味はそれなんです。(Kindle版『神話の力』第五章 p.322 of 484)
それは、己との対話によって「いまここ」の世界と積極的な関係を築く営みであり、大切なものは必ずしも外の「物質的な世界」に存在するとは限らないことを示唆している。このようなアイディアは、サン=テグジュペリが『星の王子さま』で、お金や地位などに取り憑かれて創造力を失った大人たちの姿との対比で描いたこととも通じる。
「いちばんたいせつなことは、目に見えない」
どれだけ社会的に成功し、認められることを願おうと(そして仮にその願いが叶ったとしても)、自律性なき人生は我々を虚無へと誘う。再び Joseph Campbell:
あなたにとって至福は、無上の喜びは、どこにあるのか。あなたはそれを見つけなくてはありません。[...] 無上の喜びを追求したことのない人間。世間的には成功を収めるかもしれないが、まあ考えてごらんなさい—なんという人生でしょう?自分のやりたいことを一度もやれない人生に、いったいどんな値打ちがあるでしょう。私はいつも学生たちに言います。きみたちの体と心が欲するところへ行きなさいって。これはと思ったら、そこにとどまって、だれの干渉も許すんじゃないってね。(Kindle版『神話の力』第四章 p.200 & pp.247-248 of 484)
あてなき過労、デジタル・物理コンテンツに対する中毒症状、他者との比較による自己の相対評価、あるいは搾取・疎外されていることに気づくことさえ困難な社会構造。僕が個人的に憂いるのは、そういった目先の問題である。そして、この問題は自分と同年代あるいはそれ以上の世代にとって、特に深刻なものである。
社会学者 Arthur C. Brooks は著書 From Strength to Strength で、ウェルビーイング、孤独の害、自然界における互恵関係の存在、ニーチェ哲学、仏教思想など多様な文献を参照しながら「新しい発見・創造を指すような "fluid intelligence" は、スポーツ選手のフィジカルと同じく30代から40代で必ず衰える/限界が訪れる。しかし過去の経験をつなぎ合わせた "crystallize intelligence" は年齢と共に育つので、近々訪れる壁に備えて、若い頃の知見や経験を教育やメンタリング、執筆といった次の活動に繋げていくことを見据えよ。自分の弱さや衰えに抗ってworkaholic(がむしゃらに頑張る)やsuccess addict(更なる成功を目指す)という安易な『クスリ』に逃げることは最悪手である」といった趣旨の話を展開している(超意訳)。
「ライフステージの変化に備え、それを受け入れる」「大切なものを己の内面(精神世界)に見つける」といった姿勢は、いずれ訪れる転機での一個人の社会的・物理的な生死をも左右しうる。これを「クォーターライフクライシス」の一言で片付けてはならないと、僕は思う。若くして「成功」した経営者・アスリートの Nick Bare がこの本を通して人生を振り返っている姿からも、現代社会における同種の議論の普遍性がうかがえる。
ここで注意したいのは、外の基準に縛られず、己の至福を追求することと、自己中心的になり孤立を深めることは異なる点である。When Nietzsche Wept では登場人物のひとり Josef Breuer9 が思考実験を通して、ニーチェの言葉をエクストリームに解釈してしまった結果訪れるであろう「最悪のシナリオ」を見せてくれる。
冒頭にも述べたように、ヒトはそもそも社会的動物である。つまり、己との対話という営みは、他者あるいは社会と良好なつながり・関係性を築くための「攻めの姿勢」であると言える。岡本太郎は芸術の真意は人間性にあると言った。それは己の内面、精神世界に埋没することの逆であり、ゆえに彼は外世界への発散のメタファーを用いて「芸術は爆発だ」との言葉を残したものと考えられる。実際、太郎の著書からは、自由奔放な印象とは裏腹に、両親、友人、愛人とのやりとりから非常に人間らしい一面が読み取れる。
人間性を培うための、必要条件としての「自律性」。それが、僕が情報技術者として倫理・哲学について語るときに考えることである。
1. 哲学における懐疑主義の立場で考えれば、僕らはアルゴリズムの働きについていったい何を「知っている」と言えるのだろうか。ここで目の前の事象を疑い、よく調べるためには、ある種の自律性が必要になってくる。さもなくば、我々は「水槽の脳」仮説を甘んじて受け入れることになる。過去記事:Am I Zombie? Autonomy vs. Recommendations on the Internet ↩
2. たとえば、石川善樹先生のPodcastや書籍で紹介されているようなウェルビーイング研究を参照のこと。過去記事:Loneliness Is Worse Than Smoking, Alcoholic, Obesity ↩
3. 啓蒙主義の文脈では (Intellectual) Autonomy と Solidarity が比較される。特に日本のような同質的社会において、後者の存在は極めて重要な意味を持つように僕は感じる。参考:Solidarity in Social and Political Philosophy ↩
4. 家族や友人など、大切な人については一歩踏み込む「勇気」も重要だろうが、発したメッセージが届くか否かは結局のところ受信者次第である。 ↩
5. 言うまでもなく「反応しない」こともまた、ひとつの手である。 ↩
6. ソース:Plato, Apology 38a. ↩
7. 過去記事『岡本太郎に学ぶ、芸術と人生。』を参照のこと。 ↩
8. 『自分の中に毒を持て』では、フランス留学時代にニーチェなど実存哲学に熱中したことが記されている(Kindle版, p.349 of 1942)。第三者による考察は『岡本太郎ルネッサンス(第6回)ニーチェの影響--1930年代』など。 ↩
9. ニーチェ同様、実在した人物がモデル。 ↩
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最終更新日: 2023-04-25
書いた人: たくち
Takuya Kitazawa(たくち)です。長野県出身、カナダ・バンクーバー在住のソフトウェアエンジニア。これまでB2B/B2Cの各領域で、Web技術・データサイエンス・機械学習のプロダクト化および顧客への導入支援・コンサルティング、そして関連分野の啓蒙活動に携わってきました。現在は主に北米(カナダ)、アジア(日本)、アフリカ(マラウイ)の個人および企業を対象にフリーランスとして活動中。詳しい経歴はレジュメ を参照ください。いろいろなまちを走って、時に自然と戯れながら、その時間その場所の「日常」を生きています。ご意見・ご感想およびお仕事のご相談は [email protected] まで。
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