日常的に走るようになって早5年。
僕にとって走ることは「調律」のようなもの、だと思う。睡眠時間を削って働き続け、他のことがまったく手につかなかったとしても、執筆や勉強の過程で頭の中がとっ散らかっていたとしても、時差ボケに時差ボケを重ねてどれほどグロッキーになっていても、とりあえず走ればなんとかなった。それによってものすごいブレイクスルーが訪れるというわけではない。ただ、じぶんの内側のどろどろとしたものを吐き出して、透明になり、こころの声に耳をすませる。
「うん、今日も大丈夫」そんなふうに判で押したようなプロセスを経て、閑静な住宅街を、リゾートビーチの砂の上を、標高2000メートル超の町中を、歴史的建造物の間の石畳を、倒木の横たわるトレイルを、そして時にジムのトレッドミルの上を走りながら、いつものように
競争することは、昔からずっと嫌いだ。というか、ある行為の結果として他者とのあいだに優劣がついてしまうこと、あるいは優劣をつけるシステムそのものが、とにかく苦手なのだ1。その点において、ランニングの持つ「自由さ」には随分と救われた。(プロでない限り)まず競うべき相手は自分自身であり、それなりのランニングシューズさえあれば、いつでもどこでも好きなように取り組める。結果、昨年秋のビクトリアマラソンではついにサブ4を達成できた。
* 撮影:Matt Cecill Visuals
しかし、サブ3.5を目指して一段階ギアを上げたこの春は、少しばかり様子が異なった。
あるいは春とは往々にしてそういう季節なのか、こころがざわつく日々が続く。カナダ一人暮らしフリーランス(リモートワーク)生活も8か月目を迎えた頃だ。どうしようもなく突きつけられる社会からの孤立感と、人と喋る機会が限られることによる内向化2。それは走れば走るほど(つまり、自分の内側に潜れば潜るほど)深刻になり、日に日に自分がとても弱くなっている気がした。たまに友人知人と集まっても気分が上がらず、声が、意見が、感情が出てこない。まるで、呼吸のしかたを忘れた魚みたいになってしまった。
じぶんの中にあるどろどろとしたものが、走れど走れど消えない。それどころか、それはむくむくと成長して、僕を飲み込んでゆく。こんなところで、自分は何をしているのだろう?それに一体どんな意味があるというのか?そもそも自分って、何者?そんな、自分をTPS視点で客観視しているような、心と体がちぐはぐの状態がしばらく続く。昼はずっとhazyな頭とぼやけた視界、夜は変な夢ばかり立て続けに見た。ゆっくりと、それでももう少し急いで生きないと、嗚呼あっという間に死んでしまう・・・そう、強く実感した。
ランナーズハイならぬ、ランナーズロー (low) とでも言おうか。
理由はなんとなくわかっている。まず第一に、身の回りでとても哀しい出来事があって、それがきっかけで「自分」というものがよくわからなくなってしまった。僕らは好むと好まざるとにかかわらず、第三者の影響を多分に受けて生きている。ことアイデンティティ形成に関して言えば、思春期の「それ」は、その先の人生において自分という存在のありとあらゆる側面に現れてくる3。それが訳あって、ちょっとおかしなことになってしまった。
加えて、個人的に哲学や倫理学の方面での探究が続いたタイミング4で「考え方」を誤った。『はじめて考えるときのように』で哲学者の野矢茂樹先生が指摘しているように「自分の頭で考えるというのはまちがいで、頭の外で考えたり、ひとといっしょに考えたりする」ことが大切なのに、その機会をうまく作れず、ただ何かを読んでは“考え”、自分の中に抱え込んでしまった。たとえば、アリストテレスの人生は周囲の学者や弟子と共にあり、19世紀にイギリスの哲学者たちがもたらした科学の発展は彼ら彼女らの深い交流の産物であった5。その対比としてニーチェのような孤独を生きた思想家を見ると、対話なき思考は毒であるとさえ感じる。
マインドフルネス、あるいは瞑想の核となる「己との対話」というものも確かに存在する。しかし社会的動物である我々人間にとって、その内面にあるものがひどく傷つき、脆くなっている場合には、それは悪手ともなりうる。「人間らしさ」を失わずに「人生の主体性を問う」ことは、容易ではない。
それでも幸い時間だけはあったので、鉛のように重い頭を乗せたまま僕は走り続け、ずぶずぶと沈み続けてみる。
その結果、萎んだコンディションのまま走った5月のバンクーバーマラソン(ハーフ)では、綺麗なネガティブスプリットで5年前のサンフランシスコマラソン(同)の記録を大幅に更新できた(1時間51分→1時間35分)。相変わらずTPS視点だったので、自分の記録ではないような、どこかふわふわとした気持ちで帰宅した。オートパイロット状態で走りながら僕は、「今直面しているアイデンティティ迷子と地に足つかぬ感は、国家としてのカナダの在り方にどこか通じるものがあるなあ」なんてことを“考えて”いた。
そう、国家としてのカナダ。まさにこの地で、僕が少しばかり自分というものを見失い、初めて走ることに後ろ向きになってしまったという事実。それはきっと、偶然ではない。
同じく5月、今度は東海岸でオタワマラソン(ハーフ)を1時間31分で完走し、再び自己ベストを更新する。バンクーバーに続いて、フルマラソンサブ3.5終盤のペースを身体に叩き込むための「練習」だ。その前日、僕はカナダ歴史博物館 を訪れ、この土地あるいは国が経験してきた熱量と衝突、ジレンマ、後悔、葛藤の歴史に改めて想いを馳せる。
ドキュメンタリー映画 Being Canadian でユーモラスに描かれたように、そして僕が直近2年半のあいだの限られた経験から想像するに、きっと「アイデンティティの危うさ」こそがカナダをカナダたらしめる“アイデンティティ”なのだ。それは、英語とフランス語が共存しているといった分かりやすい事実に限った話ではない。あるいは今っぽく「多様性」というラベルを貼って片付けることも可能だろうが、この社会が抱える魅力と課題は、もっとどこか時間的・空間的な「複雑さ」の上に成り立っていて、目の前には良くも悪くも膨大な可能性が広がっている。そんなふうに、僕には見える。
カナダの首都を走りながら“考えて”いたことといえば、そんな目の前に開かれた可能性についてと、自己の知識と経験と同一性がまだまだ不完全であることに対する、えも言われぬ歓びである。この場所に存在できていること、この地を走れていることに対する、シンプルな感動と感謝。それを再認識したとき、少しばかりこころがほどけたような気がした。同質的社会からの移民として、この国から学ぶべきことはあまりにも多い6。
未だに、自分がとても脆い橋の上に立っているような気がする。それでも「その一瞬」を逃さぬよう、雨の日も風の日も走り続け、こころと価値観の振れ幅に敏感であることを諦めない。まだまだ、これから。
1. もちろん、そのようなシステムの中でこそ僕らは「成長」できるわけで、それが社会にとって有意義なメカニズムであることはわかる。それでも僕は、心情(あるいは信条)的に、できることなら競わない道を選びたい。 ↩
2. 一人暮らしでリモートワーク、趣味も一人でできるものが中心、基本的に自炊、となると、1日のあいだで人と対面して口を開く機会など30分にも満たない。たまに1時間も話すと、翌日はカラオケの後みたいに喉が潰れる。 ↩
3. 思春期は自我の形成とアイデンティティの確立において極めて重要な役割を果たす(参考:思春期のこころの発達と問題行動の理解)。ではもし、その時期に築いた土台が揺らぐような出来事が起こったとしたら?真っ先に訪れるのは、自分の一部が欠けてしまったような喪失感だ。 ↩
4. 特に「情報の哲学」の文脈で入門し、自分なりに「情報」の見方を考察したり、エディンバラ大学の哲学入門コースを履修したり、関連論文を漁ったりしていた。起きている時間の大半を、自分にとっては未知の分野でのインプットに費やした。 ↩
5. The Philosophical Breakfast Club: Four Remarkable Friends Who Transformed Science and Changed the World で歴史家・哲学者のLaura J. Snyderが描いた科学史の1ページ。 ↩
6. どちらがベターかという話ではなく、ね。それぞれの国はそれぞれに違った魅力と課題を抱えていて、同時にどこか共通する特徴も有する。 ↩
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最終更新日: 2023-06-20
書いた人: たくち
Takuya Kitazawa(たくち)です。長野県出身、カナダ・バンクーバー在住のソフトウェアエンジニア。これまでB2B/B2Cの各領域で、Web技術・データサイエンス・機械学習のプロダクト化および顧客への導入支援・コンサルティング、そして関連分野の啓蒙活動に携わってきました。現在は主に北米(カナダ)、アジア(日本)、アフリカ(マラウイ)の個人および企業を対象にフリーランスとして活動中。詳しい経歴はレジュメ を参照ください。いろいろなまちを走って、時に自然と戯れながら、その時間その場所の「日常」を生きています。ご意見・ご感想およびお仕事のご相談は [email protected] まで。
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