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2020-04-25

“いいもの”ってなんだろう

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GWは愛媛をひとり旅の予定だったので、偶然見つけたデザイン誌 d design travel EHIME を読んでいた1

愛媛県砥部町の陶磁器・砥部焼が紹介されていて、唐草模様のすてきなお皿の写真がずらり。

ふと「この砥部焼のような、素朴だけれど存在感のある豆皿が欲しいなぁ」という気分になる。こんなときに近所の雑貨屋へ行ったとする。あるある、豆皿。いい柄だ。これは少し小さいかな。こっちはどうだろう・・・そんなふうに10分近く店内外をウロウロして、でも結局何も買わずに出てきてしまう。

こんなふうに、「欲しい!」という瞬間的な気持ちと「実際に買う」「(買ったあとで)使い続ける」といった行動が結びつかないことが、まぁよくある。

この服が欲しいなぁと思って電車を乗り継いでお店へ行き、ズバリなものを見つけるも、結局買わない。

ネットで紹介されていたキッチン用品に惹かれAmazonで注文するも、数回使ったら満足してしまい、次の引っ越しのタイミングでは処分している。

帰省して駅ナカの土産物屋で日本酒を買い込むが、飲みきれぬまま数ヶ月が経過。

・・・

いいなぁと思ったモノに手が届いた、あるいは届く一歩手前までくると、急に気持ちがしぼんでしまう・・・そんな経験、ありませんか。

要は、“いいもの”だと感じたものが実はあまり“よくなかった”ということなのだけど、じゃあ真に“いいもの”とそうでないものの違いはどこにあるんだろう。

ここで『ストーリーを伝えられないプロダクトの虚しさ』に書いた話を思い出した。カギはモノと自分の間に十分なストーリーが存在するかではなかろうか。

別に、店頭に並んでいた豆皿の柄が気に入らなかったとか、服を試着してみたら想像と違ったとか、使ってみたらネットの評判通りではなかったとか、日本酒の味が好みではなかったとか、そういう理由ではないのだ。ただ単に「なんか違う」「まぁいっか」という、この感じ。これを説明できないものか。

ここで、モノの“よさ”を『客観的な良さ』と『主観的な良さ』に分けて考えてみよう。

客観的な良さとは、そのモノの質や値段、素材から分かる価値であり、モノにまつわる絶対的な事実。

一方で、主観的な良さとは、自分とそのモノをつなぐ理由、経験のようなもの。これがストーリー。

「なんか違う」の背景には、この2種類の“よさ”のバランスが関わっているんじゃないかな。

豆皿も、服も、キッチン用品も、日本酒も、前者は十分に満足していた。ただ、日常のなかで「たまたま」欲しくなる無数のモノのひとつにすぎない。僕との間に十分なストーリーが無かった。これが気持ちを萎えさせる理由なのだとしたら・・・。

逆に、使い続けているうちに愛着が湧いてきたり、そこに至るまでの苦労や思い出によって物凄く平凡なモノが愛おしくなったりすることもある。

最近手動のコーヒーミルを買った。初めてのコーヒーミルなので正解はわからないけれど、手間はかかるし、きっと電動のほうが効率的で味も安定するだろう。道具自体の値段もそれほど変わらない。それでも僕は、ふりだしに戻っても同じ手動のミルを買うだろう。まだ1ヶ月程度の関係だけれど、地味な在宅勤務の日々を豊かにしてくれたミルと僕の間には確かなストーリーがある。

食べ物の“よさ”もストーリーの有無に依るところが大きい。苦労して登った山頂で食べるカップラーメンや、友人とそこらへんの居酒屋で雑に注文したお酒や料理は、ひとりでじっくり味わうミシュランガイド掲載店舗の料理よりも美味しく感じるのだから。

もちろんネガティブなストーリーの存在も無視できない。幼少期のトラウマでずっとピーマンが苦手だという人がいるように、“好み”という個人の中の曖昧な“よさ”の指標に対してストーリーが果たす役割は計り知れない。だからこそ、モノを作って供給する立場の人たちは、いかに良い「出会い」の場を提供し、ポジティブなストーリーを強く鮮明に伝えることができるかが問われている。

とはいえ、すべて客観的な良さありきの話であり、バランスが重要であることを忘れてはいけない。そもそも質が悪ければ、それを無視できるほど濃いストーリーがない限り自分にとっての“いいもの”にはなりえないだろう。旅先で買ってきたという「いかにも」なお土産用マグカップ。これを自宅で毎日使い続けるかという問いに対しては疑問符が付くが、それが大切な人の形見だとすれば話は変わってくる。

モノとして客観的な良さを担保しつつ、主観的な良さを引き出すための工夫を忘れないこと。相手の中の“いいもの”リストをひとつ増やすことのできるような、そんな特別なストーリーを紡げる者に、私はなりたい。

1. しかしこんな状況になってしまったので当然キャンセル。待ってろよー四国ー。

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最終更新日: 2022-01-18

  書いた人: たくち

たくちです。長野県出身、カナダ・バンクーバー在住のソフトウェアエンジニア。これまでB2B/B2Cの各領域で、Web技術・データサイエンス・機械学習のプロダクト化および顧客への導入支援・コンサルティング、そして関連分野のエバンジェリズムに携わってきました。現在はフリーランスとして活動を続けつつ、アフリカ・マラウイにて1年間の国際ボランティアに従事中。詳しい経歴はレジュメ を参照ください。いろいろなまちを走って、時に自然と戯れながら、その時間その場所の「日常」を生きています。ご意見・ご感想およびお仕事のご相談は [email protected] まで。

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